ハミルトン(読み)はみるとん(英語表記)Alexander Hamilton

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハミルトン」の意味・わかりやすい解説

ハミルトン(Sir William Rowan Hamilton)
はみるとん
Sir William Rowan Hamilton
(1805―1865)

イギリスの数学者、理論物理学者。幼時から天才をうたわれ、伯父の外国語教育を受けて13歳のときにすでに十数か国語に熟達していたといわれる。「計算少年」との競争を行ったことが契機となって数学に興味を抱き、ニュートン、ラグランジュ、ラプラスらの著作を読み、大学に入学する以前に当時の数学をほとんどマスターし、また光学系に関する理論のアイデアに到達した。1824年ダブリン大学のトリニティ・カレッジに入学、1827年には、まだ在学中の22歳の若さながらカレッジの天文学教授に選ばれ、ダンシンク天文台の台長を兼任した。

 1828年、最初の論文『光線系の理論』Theory of Systems of Raysの第一部を公刊したが、これはいわゆるハミルトンの特性関数の導入により光学系に対する一般的な代数的理論を建設したもので、幾何光学の基礎理論となるとともに、後年の力学理論の発端ともなった。ついで1832年に双軸結晶体の円錐(えんすい)屈折を予言し、これはロイドHumphry Lloyd(1800―1881)によりただちに実験的に証明された。このころから光学に導入した原理を力学の全分野に拡張する試みに着手し、特性関数を用いて光の伝播(でんぱ)と質点の運動を統一し、1834年変分原理としていわゆる「ハミルトンの原理」を提出、さらに「ハミルトンの正準運動方程式」をたてて力学を書き替え、解析力学の基礎を確立した。

 一方、「四元数」の着想を得て、この理論の展開に努力し、理論物理学すべてを包括する有用性を期待して晩年の20年近い歳月を費やしたが、大きな成果は得られなかった。しかし彼の研究した線に沿って多様な代数系への道が開かれ、多元数の理論などその後の代数学やその物理学の応用に大きな影響を与えた。この分野の著作に『四元法講義』Lectures on Quaternions(1853)、『四元法原理』The Elements of Quaternions(1866)がある。詩を愛し、当時の詩人らと多く交わった。

[藤村 淳]


ハミルトン(Alexander Hamilton)
はみるとん
Alexander Hamilton
(1757―1804)

アメリカの政治家。イギリス領西インドのネイビス島出身。1772年に渡米し、まもなく独立革命に参加、77年にはワシントン総司令官の参謀となる。早くから強力な中央集権政府の樹立を力説。戦後は弁護士業を勤め、86年のアナポリス会議では州を代表して、フィラデルフィア連邦憲法会議開催(1787)の推進者となった。新連邦憲法の批准を確保するため、強力な言論戦を展開し、マディソンらと『フェデラリスト』85編を著し(1787~88)、批准の実現に多大の貢献をした。89年、ワシントン大統領下の財務長官を務める。商工業界を背景に、公債の額面償還、国立銀行の設立、輸入税・消費税の新設などにより公信用と歳入を確立し、新国家の財政基盤を整備した。フランス革命戦争下、親英的立場より中立政策を図り、国務長官ジェファソンと決裂。94年、「ウイスキー反乱」として知られる酒税反対のための農民争乱を鎮圧、連邦政府の権力を誇示した。95年に辞職したが、野にあっても国政に巨大な影響力を残した。1804年、政敵バーA. Burr(1756―1836)との決闘により死亡した。

[池本幸三]

『田島恵児著『ハミルトン体制研究序説――建国初期アメリカ合衆国の経済史』(1984・勁草書房)』


ハミルトン(Sir William Hamilton)
はみるとん
Sir William Hamilton
(1788―1856)

イギリスの哲学者、論理学者。エジンバラオックスフォード大学に学ぶ。エジンバラ大学教授。スコットランド学派に属すが、カントの強い影響を受ける。トーマス・リードと同じく、知覚において対象は直接に知られると説く。しかしその認識は、対象の表象ないし現象を通してなされるものであり、媒介物や感覚器官による変容を受けるとして、相対主義的傾向を示した。そこからカントの二律背反に近い議論も展開する。論理学では賓辞(ひんじ)(命題の主辞について述べられることば)の量化を試み、これを論理学への大きな貢献と考えた。著書に『哲学・文学論集』(1852)、『形而上(けいじじょう)学・論理学講義』(1859~1860)など。リードやスチュアートDugald Stewart(1753―1828)の編者としても知られている。

[小池英光 2015年7月21日]


ハミルトン(Edmond Hamilton)
はみるとん
Edmond Hamilton
(1904―1977)

アメリカのSF作家。1926年からパルプ・マガジンを舞台に娯楽的な冒険SFを書いて、古典的なスペース・オペラの発達と普及に貢献した。外宇宙からの脅威が迫って地球なり太陽系なりが絶滅の危機に瀕(ひん)したとき、ヒーローが敢然と宇宙船を駆って――というのが基本的プロットで、彼はこうした作品を量産したために「世界破壊者(ワールド・デストロイヤー)」とか「世界救済者(ワールド・セイバー)」という異名を奉られた。有名なシリーズものとしては40年代の『キャプテン・フューチャー』、60年代の『スターウルフ』があり、独立した作品には『スター・キング』(1947)、『時果つるところ』(1951)、また、短編集に『フェッセンデンの宇宙』(1973)などがある。

[厚木 淳]

『福島正実訳『キャプテン・フューチャー』(1976・岩崎書店)』『野田昌宏訳『時果つるところ』(1969・早川書房)』


ハミルトン(Gavin Hamilton)
はみるとん
Gavin Hamilton
(1723―1798)

スコットランドの画家、考古学者。グラスゴー大学で学んだのちローマに赴き、生涯をほとんど同地で過ごした。メングスやウィンケルマンらとともにローマの新古典主義サークルの主導的メンバーであり、1760年代に、古代彫刻やプサンから影響を受けて制作したホメロス主題の歴史画は、その後の国際的な新古典主義様式の展開に大きな影響を及ぼした。考古学者としてローマ近郊のいくつかの発掘に参加したが、イギリス本国ではむしろ古代彫刻のディーラーとして知られた。

[谷田博行]


ハミルトン(カナダ)
はみるとん
Hamilton

カナダ、オンタリオ州南東部の工業都市。人口49万0268、大都市圏人口66万2401(2001)。オンタリオ湖西岸のハミルトン湾南岸斜面上に位置する。住民の59%がイギリス系で、残りはイタリア系、ドイツ系などである。1778年に最初の集落が建設されたが、1813年にジョージ・ハミルトンの農場ができてから町として発展した。カナダ太平洋鉄道ならびにカナダ国有鉄道が敷設されると、ナイアガラ、デキュー両滝からの電力、近郊の天然ガスなどにより工業中心地となった。鉄鋼、電気、化学薬品、衣料、食品加工業が発達し、カナダのピッツバーグとよばれる。植物園、マクマスター大学(1887創立)もあり、文化・商業の中心地でもある。

[山下脩二]


ハミルトン(イギリス)
はみるとん
Hamilton

イギリス、スコットランド中部の都市。グラスゴー南東17キロメートル、クライド川下流沿いに位置する。人口4万8200(2002推計)。地名はスコットランド貴族ハミルトン家に由来する。付近のイースト・キルブライド、ウィッショー、マザーウェルなどの都市とともにグラスゴー工業地帯におけるコナベーション(連接都市域)を形成する。おもに商業・住宅都市であるが、織物、食品加工、機械などの工業も立地する。ハミルトン家の宮殿がある。

[米田 巌]


ハミルトン(ニュージーランド)
はみるとん
Hamilton

ニュージーランド北島中北部に位置する都市。北島第三の都市で、人口11万4921(2001)。ワイカト川中流に広がる北島第一のワイカト平野にあって、酪農、牧羊の中心地となっている。乳製品、食肉加工、木工、農機具などの工業が盛ん。1877年鉄道が開通し、農畜産物の集散地として重要性を増した。1864年先住民マオリとの紛争に備えたワイカト義勇軍の屯田兵村として開かれ、1945年市制を施行。ワイカト大学の所在地。

[浅黄谷剛寛]


ハミルトン(イギリス領バーミューダ諸島)
はみるとん
Hamilton

イギリス領バーミューダ諸島の首都。北大西洋西部にあるバーミューダ島西岸に位置する。人口1669(1984)、854(2016センサス)。1790年に建設され、1815年同諸島の首都となった。町の中央にネオ・ゴシック式の大聖堂があり、その周辺に議会、最高裁判所などの官庁がある。パラ・ウィユ公園内には歴史博物館、図書館があり、北西部にビクトリア公園がある。1956年以来、貿易促進のため自由港となっている。

[林 晃史]


ハミルトン(アメリカ合衆国)
はみるとん
Hamilton

アメリカ合衆国、オハイオ州南西部、グレート・マイアミ川に臨む都市。人口6万0690(2000)。シンシナティの北40キロメートルに位置する工業の中心地で、製紙、機械、化学、自動車部品、モーターなど多種工業の発達が目覚ましい。1791年に町が建設され、1803年オハイオ州の誕生を契機に本格的な発展がみられ、1887年より市制が施行された。

[作野和世]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハミルトン」の意味・わかりやすい解説

ハミルトン(侯・公家)
ハミルトン[こう・こうけ]
Hamilton, Marquesses and Dukes of

スコットランドの貴族の家柄。爵位はハミルトン家,次いでダグラス家が保有。ハミルトン家の2代アラン伯の次男ジョン (1532~1604) が,1599年侯爵に叙せられたのに始る。その子の2代侯ジェームズ (1589~1625) は,1609年伯父の跡を継いでアラン伯を兼称,吸収し,17年イングランド枢密顧問官になり,19年功によりイングランドの爵位ケンブリッジ伯を授けられたが (→ケンブリッジ〈伯・公家〉 ) ,初代バッキンガム (公)の親フランス政策に反対したため,公により毒殺されたといわれる。その長男ジェームズ (06~49) は初代ハミルトン (公)。2代侯の次男ウィリアム (16~51) が兄を継いで2代公になり,清教徒革命においてスコットランド長老派の首領として活躍したが,51年ウースターの戦いで戦傷死。その後爵位保有権は初代公の長女アン (31頃~1716) に移り,60年王政復古時に彼女の要請により夫ウィリアム・ダグラス (1635~94) に与えられ,彼は3代公として,名誉革命の際スコットランド議会を指導した。これより公爵位はダグラス家に移り,3代公の長男4代公ジェームズ (58~1712) は名誉革命の際連隊長として国王ジェームズ2世に従い,18世紀初頭にはスコットランド国民派の指導者としてイングランドとの合同に反対し,1708年フランス軍の侵入を策したとして投獄され,最後は決闘して死亡。7代公ジェームズは 61年ダグラス侯とアンガス伯を兼称した。

ハミルトン
Hamilton, Alexander

[生]1755? イギリス領西インド,ニービス島
[没]1804.7.12. ニューヨーク
アメリカの政治家。 1772年ニューヨークに移り,翌年キングズ・カレッジ (現コロンビア大学) に入学。 74年『大陸会議の政策を全面的に擁護する』というパンフレットを書き,独立革命運動に参加。独立戦争が起ると砲兵隊大尉として活躍し,77年認められて G.ワシントン総司令官の副官をつとめた。その後オールバニで法律を学び弁護士を開業。 82年大陸会議にニューヨーク州代表として出席,三権分立による中央集権国家の必要を力説。合衆国憲法制定会議開催に重要な役割を果し,多くの憲法反対論者に対して,『ザ・フェデラリスト』 The Federalistを執筆し憲法擁護の論陣を張って世論に多大の影響を与えた。 89年発足したワシントン政権の財務長官に任命され,公債の発行,合衆国銀行の設立,関税の設定,工業振興など新国家の経済的基礎を固めるため諸政策を次々に実施した。 94年国内消費税をめぐるウイスキー反乱が起ったとき,みずから陣頭に立って連邦軍を指揮して鎮圧。 95年財務長官を辞職したが,連邦派の指導者として政治的影響力は衰えなかった。しかし,連邦派の第2代大統領 J.アダムズとの対立を深め,その後 1800年の大統領選挙で共和派の T.ジェファーソンと A.バーが同数の選挙団投票を得て下院に決選が持込まれたとき,彼は連邦派の意向に反してかつての政敵ジェファーソンを推したため,党内の支持を失った。 04年宿縁の政敵バーとの決闘で受けた傷がもとで死去した。

ハミルトン
Hamilton, Sir William Rowan

[生]1805.8.4. ダブリン
[没]1865.9.2. ダブリン
アイルランドの数学者,物理学者。幼少から異常な才能を発揮し,1820年頃数学に興味をもちはじめ,A.C.クレロー,ニュートン,P.ラプラスなどの著作を読破,22年幾何光学に関する論文を書いてアイルランド王立アカデミー会長から称賛された。 23年にダブリンのトリニティ・カレッジに入学し,在学中に天文学の教授に任命された。おもな業績は,独自の特性関数を導入して幾何光学を新しい数学体系に仕上げ円錐回折を予見したこと,現在ハミルトンの原理として知られている原理を使って正準方程式を導き解析力学の基礎を確立したこと,さらに乗法の交換法則の成立しない四元数を発見したことなどがある。彼の業績の重要性は量子力学の誕生後初めて十分に認識された。 35年ナイトの称号を授けられ,37年アイルランド王立アカデミー会長。主著『光線系の理論』 (1827) ,『力学の一般的方法』 (35) ,『四元法の原理』 (66) 。

ハミルトン
Hamilton, Richard William

[生]1922.2.24. ロンドン
[没]2011.9.13. オックスフォード近郊
イギリスの芸術家。「ポップ・アートの父」と呼ばれた。ロイヤル・アカデミー,スレード美術学校などで学んだのち,デザイナーとして活躍した。1950~60年代の文化をパロディー化した作品が多い。ポップ・アートの先駆者として認められたのも,中産階級の家庭生活を風刺したコラージュによるところが大きい。代表作となったこのコラージュは『いったい何が今日の家庭をこれほど独特なもの,これほど魅力あるものにしているのか』Just What Is It That Makes Today's Homes So Different, So Appealing?と題し,インデペンデント・グループとして知られる画家たちが 1956年にロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーで開いた『ジス・イズ・トゥモロー』展で発表された。後年,コマーシャル・アートをはじめ,写真に絵の具を塗る技法やスクリーン印刷,オブジェ・アートなども手がけた。なかでもビートルズの通称『ホワイトアルバム』(1968)のジャケットデザインで知られる。

ハミルトン
Hamilton, James

[生]1769. ロンドン
[没]1829.9.16. ダブリン
イギリスの語学教育者で,ハミルトン方式 (外国語教育法) の創始者。わずか4年の教育を受けただけで,フランスとハンブルクで数年間行商を営み,その間ハンブルクでフランス人亡命者ド・アンジェリ将軍にドイツ語を習った。 1815年農業とカリ工場の経営を計画してニューヨークに向ったが,航海中に翻意してド・アンジェリの方法による外国語教授を行うことにした。 16年フィラデルフィアでハミルトン方式の最初の授業を実施,以後アメリカやカナダの諸都市で教え,大成功を収めた。 23年イギリスに帰り,諸都市で成人を対象に外国語を教授した。彼は自分で教科書を著作したが,それは文法を用いるかわりに原文の各行に逐語訳を付したもので,この行間逐語訳式翻訳のおもなものに『ヨハネ福音書』『イソップ物語』などがある。著書『ハミルトン方式の歴史と原理と実際と成果』 The History,Principles,Practice and Results of the Hamiltonian System (1829) がある。

ハミルトン
Hamilton, Emma, Lady

[生]1765.5.12. チェシャー,グレートネストン
[没]1815.1.15. カレー
イギリスの外交官ウィリアム・ハミルトンの夫人。チェシャーの鍛冶屋の娘として生れたが,早く父を失い,1780年頃から将来の夫となるハミルトンの甥 C.グレビルの保護と教育を受け,美貌と才気で社交界の花形となった。やがてグレビルの借金返済の代償としてハミルトンの愛人となり,のち夫人となった (1791) 。夫の任地ナポリの社交界で,情報収集の役割を演じ,98年イギリス艦隊のナイルの戦いでの勝利に貢献。これを契機に H.ネルソンの愛を得,1801年彼の娘ホレーシャを生んだ。夫ハミルトンの死 (1803) とネルソンの戦死 (05) により,莫大な遺産を得たが,ギャンブルと浪費にふけり,窮乏のなかでフランスに逃れ,カレーで世を去った。

ハミルトン(公)
ハミルトン[こう]
Hamilton, James Hamilton, 1st Duke of

[生]1606.6.19.
[没]1649.3.9.
スコットランドの政治家。2代ハミルトン侯の子。アラン伯ジェームズ・ハミルトンの直系にあたるためスコットランド王位継承権を所持した。オックスフォード大学を卒業後,1625年に3代ハミルトン侯を継ぎ,枢密顧問官となった。 31年にスウェーデン王グスタフ2世救援のためドイツに遠征し,41年には国王チャールズ1世のスコットランド訪問に従った。 43年公爵に昇格。清教徒革命の第2次内乱でスコットランド議会を掌握して大軍を集め,チャールズ1世救援にイングランドに侵入したが,48年8月プレストンの戦いで O.クロムウェルに敗れ,捕われて処刑された。

ハミルトン
Hamilton

カナダ,オンタリオ州南東部の都市。オンタリオ湖の西端,トロントの南西 58kmに位置する。 1669年フランスの探検家ラサールがハミルトン湾岸に初めて上陸。 1778年ロイヤリスト (王党派) が町を建設,1846年市となった。 30年ハミルトン湾とオンタリオ湖を結ぶバーリントン運河が開通し,50年鉄道網の中心となって以降工業都市として発展。特に 93年に操業を開始した鉄鋼業は,カナダ鉄鋼生産の大きな部分を占める。ほかに鉄道,電機,衣料,化学などの工業も立地。重工業は湖岸部に集中し,港はオンタリオ湖と約 6kmの長さをもつ砂礫州で分けられる。また北アメリカ屈指の果樹生産の中心地で週3回開かれる果実,野菜,花卉の市場は有名。原子核研究で名高いマックマスター大学 (1887) やロイヤル植物園がある。人口 51万9949(2011)。

ハミルトン
Hamilton

イギリススコットランド中南部,サウスラナークシャーの行政府所在地。グラスゴーの南東,クライド川の左岸にあり,エーボン川の合流点に近い。炭鉱地帯にあったことから町は採炭によって発展,19世紀には鋳鉄,機械などの関連工業が進出した。しかし 1947年までに炭鉱はすべて閉山し,今日では果樹栽培,園芸,酪農の盛んな農業地帯を背後に控えて,おもにその商業中心地として,またグラスゴーの郊外住宅地として機能している。軽機械,繊維,食品などの工業も行なわれる。人口 4万8220(2004推計)。

ハミルトン
Hamilton, William Gerard

[生]1729.1.28. ロンドン
[没]1796.7.16. ロンドン
イギリスの政治家。オックスフォード大学を出て 1754年下院に入り,貿易,植民,アイルランド関係の役職を歴任した。下院での処女演説 (1755.11.13.) が 15時間に及ぶ熱弁で,H.ウォルポールや S.ジョンソンらもその才気を評価してやまなかったので,「一発演説のハミルトン」 Single Speech Hamiltonとあだ名されたことで有名。

ハミルトン
Hamilton, Sir William

[生]1730.12.13. スコットランド
[没]1803.4.6. ロンドン
イギリスの外交官,考古学者。エマ・ハミルトンの夫。陸軍軍人であったが,富裕な最初の妻との結婚後陸軍を退き,外交官となった。 1764~1800年ナポリ公使。その間にベズビオやエトナの火山活動を研究,数編の論文を公にした。また有名な古物収集家でもあり,彼の集めた数多くの財宝は大英博物館に納められている。妻の死 (1782) で多くの遺産を相続し,1791年,のちに H.ネルソンの愛人となるエマと再婚し,ナポリ社交界をにぎわした。

ハミルトン
Hamilton, Sir William, Baronet

[生]1788.3.8. グラスゴー
[没]1856.5.6. エディンバラ
イギリスの哲学者。 1821年エディンバラ大学教授。スコットランド学派 (→常識哲学 ) の代表者で,認識論的には,カントの影響を受け,絶対者は認識の対象ではなく,信仰の対象であるとして,認識の相対性を主張した。また心理学的には能力心理学の立場に立った。主著『形而上学,論理学講義』 Lectures on Metaphysics and Logic (4巻,1859~60) 。

ハミルトン
Hamilton, Sir Ian Standish Monteith

[生]1853.1.16. イオニア諸島,ケルキラ
[没]1947.10.12. ロンドン
イギリスの軍人。 1872年に陸軍に入り,第2次アフガン戦争,南アフリカ戦争,ナイル川探検などで活躍。日露戦争では日本軍への軍事使節団長を務めた。 1915年に地中海方面の司令官となり,第1次世界大戦中,ガリポリの戦いを指揮したが,戦果が上がらず,なおも作戦の継続を主張したため更迭された。著書『ガリポリ日記』 Galipoli Diary (2巻,1920) 。

ハミルトン
Hamilton

アメリカ合衆国,オハイオ州南西部の都市。シンシナティの北 37km,グレートマイアミ川沿岸に位置する。 1791年インディアンとの戦いにそなえてハミルトン砦が建設され,94年これに接してフェアフィールと呼ばれる町が創設されたのに始る。砦は 96年に放棄され,この頃地名は A.ハミルトンにちなんで改称された。 1854年対岸のロスビルを合併した。製紙,ボルト,自動車車体,機械,ディーゼルエンジンなどの工業が行われる。マイアミ大学の分校がある。人口6万 1368 (1990) 。

ハミルトン
Hamilton, Lord George Francis

[生]1845.12.7.
[没]1927.9.22. ロンドン
イギリスの政治家。 1868年保守党から下院に入る。経済学者としても著名で救貧法,失業に関する調査委員会の委員長として活躍。 78~80年教育行政を担当。 85~92年海相。海相時代の業績が最もよく知られている。海軍兵器管理権の陸軍省から海軍省への移管,海軍省情報部の創設,その他ドイツとの建艦競争期の立役者として,また第1次世界大戦初期の海相フィッシャー卿の補佐役として貢献した。

ハミルトン
Hamilton, Anthony

[生]1645頃
[没]1719.4.21. サンジェルマン
アイルランドの作家。フランス語で執筆。少年期の 10年と 45歳頃から死ぬまでの時期をフランスで過した。主著『グラモン伯回想録』 Mémoires du comte de Gramontは義兄の老伯爵が叙述した形をとっており,1713年出版されるや大成功を収めた。記録としては不正確であるが,ユーモアあふれる文体で当時のイギリス宮廷を如実に描いている。

ハミルトン
Hamilton, Earl Jefferson

[生]1899.5.17. ミシシッピ,ハウルカ
[没]?
アメリカの経済学者,経済史家。スペイン近代初期の経済史を専攻。 1927~29年デューク大学経済学講師,29~44年同大学教授。その後ノースウェスタン大学,シカゴ大学,ニューヨーク州立大学の各教授を歴任。主著に『スペインにおける戦争と物価 1651~1800年』 War and Prices in Spain 1651-1800 (1947) がある。

ハミルトン
Hamilton, Patrick

[生]1504頃
[没]1528.2.29.
スコットランド宗教改革の最初の説教者,殉教者。パリ大学に学び,ルター,エラスムスらの影響を受けた。帰国後,セントアンドルーズ大学で研究を続けたが,改革を説いたため異端の判決を受け,火刑に処せられた。 P.メランヒトンにならって,彼自身の神学論叢『ロキ・コンムネス』 Loci Communes (1526) を書く。

ハミルトン
Hamilton, Andrew

[生]1676
[没]1741.8.4. フィラデルフィア
スコットランド生れのアメリカの法律家。幼時にアメリカに移住し,1717年ペンシルバニアで弁護士となった。 35年,ゼンガー事件として有名な名誉毀損事件で,印刷業者,J.ゼンガーの弁護に成功し,植民地アメリカにおける出版の自由確立の基礎を築いた。

ハミルトン
Hamilton

大西洋北西部,バミューダ諸島の主島 (大バミューダ島) の北岸にある港湾都市。イギリス領バミューダの首都。 1790年に建設され,1815年セントジョージズ島のセントジョージに代ってバミューダの首都となった。 1956年以来自由港となっている。市の中心部に新ゴシック様式の大聖堂がある。おもな収入源は観光業。人口 969(2000)。

ハミルトン
Hamilton

ニュージーランド,ノース島ワイカト地方の中心都市。オークランドの南南東約 110km,タウポ湖から流出するワイカト川中流右岸に位置する。付近はニュージーランド最大の平野で,乳製品や木材の集散・加工地。ワイカト大学がある。人口9万 8500 (1990推計) 。

ハミルトン
Hamilton, William

[生]1665頃.レディランド
[没]1751.5.24. ラトリック
スコットランドの詩人。スコットランド高地特有のゲール語による詩の先駆者。 A.ラムゼーとの韻文による往復書簡やゲール語の伝承物語に拠る近代詩で知られる。

ハミルトン
Hamilton

オーストラリア,ビクトリア州南西部の町。メルボルンの西 286kmにあり,19世紀なかばにポートランドと金鉱との中継地点として発達した。同州西部の農牧地域の中心都市の一つ。人口 9756 (1991推計) 。

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