愛智庄(読み)えちのしよう

日本歴史地名大系 「愛智庄」の解説

愛智庄
えちのしよう

愛知川えちがわ町から湖東ことう町付近に比定される奈良元興がんごう寺領庄園。一一世紀半ばに奈良東大寺東南院領となったが、庄園整理令により収公された。東大寺領大国おおくに庄や奈良大安寺領と入組んでいる。貞観元年(八五九)一二月二五日の依智庄検田帳(百巻本東大寺文書)に依智庄とみえ、天平勝宝五年(七五三)・同六年に聖武上皇が先帝の施入物で元興寺に購入した土地であるという。面積は六〇余町で不輸租田であったともいう(康平三年四月二一日「愛智庄司等解」同文書)。この検田帳によれば、三町三一〇歩の水田に関して、嘉祥元年(八四八)からこの年までかけて検田を行い、国司経験者など当地の有力者と交渉して地子を納めさせるようにしたといい、承和一四年(八四七)以来の田帳があるという。なおこれより先、同寺領は弘仁一二年(八二一)の図に愛知郡の八条八里、九条七里・八里・九里、一一条八里・九里の合計三町九段一〇歩が登録記載されており、その後図に漏れた合計七段二三〇歩が承和四年四月二二日新たに登録されているが、条里などから当庄と考えられる(「元興寺三論宗連署状」東南院文書)。貞観一八年一一月一五日、前豊前講師安宝(元東大寺三論別供別当)は佃二町から得られる稲のうち四分の一を来年の営料とし、三〇束を租料とした残りの米二五石七斗と、庄田一〇町から得られる地子米三五石の計六〇石七斗のうち、運搬する馬や庄の経営のため使用する分と、米を運ぶ費用一五石七斗を引いて大津に届けられる米四五石のうち三〇石を、三論一部七巻などの毎年の講経料として講師に二〇石、読師・法用分として一〇石をあてることとし、宗学衆施灯料として一〇石、残りの五石は予備ないし貸出してその利息治田を購入する資金にあてることなどを定めている(「愛智庄定文」東南院文書)


愛智庄
えちのしよう

坂本日吉社領庄園。琵琶湖に接していたことはわかるが、現在地は不明。貞永二年(一二三三)四月日の明法勘文(大安神社文書)に「日吉社領愛智御庄」とみえ、領主が二人いて上下に分けて知行し、課役も均等に勤めているが、相論となり上下の境を定めたいため明法家の意見を申請し、明法家は実検して等分するよう勘進している。これによれば、当庄は康和年中(一〇九九―一一〇四)に建立され、永久年中(一一一三―一八)に官符を請けたが、私的に上下に分けて知行するようになったもので、正式には官符を得ていないという。また上下に分けた際に、上方の領主神主成房と下方の領主禰宜友永との間で起請文と契状が作成されている。それによれば、水田の面積は上方が二一九町六段、下方は二六〇町の約四八〇町で、下方は本田が増したので浜際の荒廃田は免じたとあり、草刈菅菰漁捕は互いに制止しないとあるので、琵琶湖に接していたことがわかる。


愛智庄
あいちのしよう

東大寺領荘園。弘安八年(一二八五)の東大寺領諸荘注進状写(東大寺文書)に「愛智庄」とみえ、天平勝宝四年(七五二)の勅施入によって成立したことが記される。当庄の名は郡名から付けられたもので、愛知郡内に所在したものと考えられる。天暦四年(九五〇)一一月二〇日付の東大寺封戸荘園并寺用雑物目録(同文書)に「愛智郡五町」、および長徳四年(九九八)の「諸国諸庄田地」(東大寺要録)に「愛智郡七十町」と記される地にあたるものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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