大安寺(読み)ダイアンジ

デジタル大辞泉 「大安寺」の意味・読み・例文・類語

だいあん‐じ【大安寺】

奈良市大安寺町にある高野山真言宗の別格本山。南都七大寺の一。推古天皇25年(617)聖徳太子の発願で建立された熊凝精舎くまごりしょうじゃに始まると伝え、その後、十市郡に移り百済くだら大寺、高市郡に移り高市大寺、のち大官大寺と改称。霊亀2年(716)平城京に移り、大安寺となった。奈良時代、三論宗の根本道場として道慈などが活躍。東大寺に次ぐ大寺で、南大寺とも称された。中世以降、衰微。

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精選版 日本国語大辞典 「大安寺」の意味・読み・例文・類語

だいあん‐じ【大安寺】

  1. 奈良市大安寺町にある高野山真言宗の寺。南都七大寺の一寺。推古天皇二五年(六一七)聖徳太子が現在の額安寺の地に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)にはじまると伝えられる。その後、舒明天皇一一年(六三九)大和国百済(奈良県北葛城郡広陵町)の百済川のほとりに移して百済大寺と呼ばれ、さらに高市郡夜部村(明日香村)に移建されて高市(たけち)大寺と称し、つぎに大官大寺と改称した。平城京遷都後は左京六条四坊の現在地に移され、現名に改称。東大寺につぐ大寺として栄えたが中世以降衰微した。現在の堂宇は明治以降の造立。南大寺。大寺。

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日本歴史地名大系 「大安寺」の解説

大安寺
だいあんじ

[現在地名]奈良市大安寺町

大安寺集落の南はずれ、古代の平城京左京六条四坊の地に位置する。高野山真言宗。本尊は十一面観音。南都七大寺および「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一つで、南大なんだい寺とも称され、現在は癌封じの寺としても知られる。なお東九条とうくじよう町も含む大安寺旧境内は国指定史跡。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔創建〕

和銅三年(七一〇)の平城遷都とともに旧京の諸寺は新京に移され、大安寺の前身である大官だいかん大寺(現奈良県明日香村)も遷造された。その時期については和銅三年・天平元年(七二九)など諸説があるが、「続日本紀」霊亀二年(七一六)五月一六日条に「始徙建元興寺于左京六条四坊」とあり、養老二年(七一八)九月二三日条には「遷法興寺於新京」とある。これはいずれも当寺に関する記述と考えられる。すなわち左京六条四坊は当寺の位置であり、また当寺は法興ほうこう(元興寺)ともおお寺とよばれていた。和銅四年旧京で焼亡したとされる大官大寺は他寺に先がけて新京に移建されたと考えられる。天平一九年勘録の大安寺伽藍縁起并流記資財帳によると、養老六年に仏供養具一〇口・聖僧供養具一〇口・秘錦大灌頂幡一具、翌年には一切経一千五九七巻が元正天皇によって施入されていることから、伽藍の造営はかなり進んでいたらしい。だが「続日本紀」天平一六年条の道慈伝には「属遷造大安寺於平城、勅法師勾当其事、法師尤妙工巧」と記され、「扶桑略記」も神亀六年(天平元年)条に「勅道慈改造大寺」「本朝大安寺、以唐西明寺為規摸焉」と記す。養老二年に唐より帰朝した道慈は天平元年頃から大安寺の造営に携わり、大きな功績をあげたことがわかる。あるいは当時継続中の造営工事の計画変更を指導したとも考えられる。

〔伽藍配置と規模〕

天平八年には中門・回廊に羅漢画像九四躯、金剛力士形八躯、梵王・帝釈・波斯匿王婆沙羅王像、同一四年には金堂の菩薩二躯・羅漢像一〇躯・八部衆像一具、中門の四天王像二具が造顕されており、主要伽藍の一部はこの頃ほぼ整備されたらしい。前掲資財帳には金堂・講堂・食堂・経楼・鐘楼・四面回廊・南大門・中門のほか、僧坊一三・井屋二・宿直家六・温室院三・禅院舎八・太衆院屋六・政所院三・倉二四の記載がみられ、塔院を除いて他は完成したことがわかる。寺地は一五坊で、内訳は「四坊塔院、四坊堂并僧房等院、一坊半禅院食堂并太衆院、一坊池并岳、一坊半賤院、一坊苑院、一坊倉垣院、一坊花園院」で、塔院は七条四坊の一、二、七、八の坪を、堂并僧房等院は塔院の北、六条四坊の三、四、五、六の坪を占めた。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]相川町江戸沢町

町中心部の見晴しのきく小高い台地上にある。浄土宗、長栄山法広院と号し、本尊阿弥陀如来。もと京都知恩院末。慶長一一年(一六〇六)大久保長安により創建。境内に「逆修・大久保石見守殿・法広院殿一的朝覚」と刻銘の宝篋印塔がある。長安は慶長一八年に駿府すんぷ(現静岡市)で没しており、この墓は生前に建てられ、当寺は長安の逆修寺という性格をもっていた。「佐渡風土記」に「是、府中寺の始也」と記し、旧相川町における寺院のはじめとする。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]水沢市 東町

大白山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観音(応永二二年造顕)。一関城主だった留守政景の発願により嗣子宗利が政景の死後、慶長一二年(一六〇七)一関機織はたおり山に創建、松島瑞巌まつしまずいがん(現宮城県宮城郡松島町)の実堂宗中を招き開山とした。元和二年(一六一六)二世俊室のとき宗利がかねさき(現胆沢郡金ヶ崎町)に移り、寛永六年(一六二九)には水沢に転じ、大安寺もそれに伴って移転した(塩竈村安永風土記)


大安寺
だいあんじ

[現在地名]長野市七二会 大安寺

曹洞宗。長興山と号し、本尊は釈迦如来

初め臨済宗に属し、開基は土豪春日左衛門大夫、開山は鎌倉建長けんちよう寺の住僧雷峰妙霖である。開創は康安元年(一三六一)と伝え、同寺に永和二年(一三七六)の寿塔があり、「宝篋印塔娑一基 右造立旨趣、奉為 本寺開山雷峰和尚増崇品位、以報法乳之恩、伏願、門風永扇、至三暁也、永和二年四月五日、小師敬白」と刻んである。戦国騒乱に兵火のため焼け荒廃した。

春日修理大夫は、天正年中(一五七三―九二)曹洞宗総持そうじ寺派安曇あずみ大沢だいたく寺(現大町おおまち市)八世南室正頓を請じ再興させ、曹洞宗に改めた(信濃宝鑑)


大安寺
だいあんじ

[現在地名]徳島市南佐古六番町

佐古さこ山麓にある。東雲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。蜂須賀家政が帰依した僧泰雲を開山とし、慶長七年(一六〇二)に建立された。方丈には家政の妹東林院(丹波亀山城主前田氏室、慶長二年没)のいた徳島城西の丸の建物が移されたという(阿波志)。当初は定慧山と号していた(阿淡年表秘録)。支院として東部に東林とうりん院があった(「阿波志」など)。蜂須賀氏の菩提所として興源こうげん寺に次ぐ地位を占め、寛永年間(一六二四―四四)には寺領二〇〇石と寺門前にて一石余を与えられていた(寛永一八年忠英様御代両国内寺領社領等支配帳)。承応二年(一六五三)には寺領および境内山林竹木等の諸役を免許する蜂須賀光隆の判物(「阿波仏刹志」最近文明史料)を与えられた。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]堺市南旅篭町東四丁

南宗なんしゆう寺の北東側に位置する。臨済宗東福寺派、山号布金山、本尊釈迦牟尼仏。応永元年(一三九四)徳秀が開創(堺鑑)。当初の創建地は現在地より北側(現新在家町東三丁)であった。徳秀は京都東福寺開山聖一国師の法孫寰仲の弟子である(泉州志)。足利義満・義持は当寺を崇敬し寺領二〇〇石を寄進した(堺市史)。「蔗軒日録」文明一七年(一四八五)四月一四日条によると、当寺住持天圭中瓏は京都南禅寺の住持補任状を受け、また同一八年六月二二日条には天圭や季弘大叔らが当寺で連歌会を催したことを記す。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]西都市鹿野田

鹿野田かのだの南、都於郡とのこおり町の東に隣接して建つ。興福山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。古くは総昌そうしよう院と称した。この院号は文明一七年(一四八五)四月二八日に清武きよたけ(現清武町)で没した伊東祐尭の諡号であり、境内に祐尭の墓もあることから、文明期に創建されたと思われる。慶長八年(一六〇三)に佐土原藩三万石に封ぜられた島津以久は同一一年新たに薩摩常珠寺(現鹿児島県金峰町)の大庭宗徹を開山として、総昌院を以久の父忠将の菩提寺とし、寺名も大安寺と改称した。江戸時代には領内に四十数ヵ寺の末寺をもち、黒貫くろぬき寺や高月こうげつ(現佐土原町)と並ぶ名刹として崇拝され、寛延四年(一七五一)の分限帳(清野家文書)によれば寺領は一〇〇石であった。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]各務原市鵜沼大安寺町

村国真墨田むらくにますみだ神社の北西約二キロにあるしん池の北に位置する。済北山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦三尊。「新撰美濃志」によると、応永二年(一三九五)笑堂常訴の開山で、開基は美濃国守護土岐頼益(法名は興禅院寿岳保公、同院は廃寺となり所在不明)。頼益は明徳元年(一三九〇)土岐康行の乱後、康行に代わった同族西池田家の出身である。伽藍は応仁の乱前後に兵火にあって焼失したが、その後春叔が再興し、京都南禅寺に属していたのを妙心寺派に改めたという。一説には那加なか地区に勢力を張っていた薄田祐貞の中興ともいわれる。境内の観音堂の聖観音は再興前の本尊で行基作と伝え、経蔵礎石も残る。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]福井市田ノ谷町

丹生にう山地東部の中腹にある。臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。福井藩主四代松平光通の発願により、明暦元年(一六五五)田谷でんこく寺跡に創建され、大愚を開山に招いて万松山大安禅寺と称した。万治三年(一六六〇)寺領三〇〇石が寄進され、光通の死後、法号を大安院と称し、その菩提寺となった。寺宝として兆殿司筆(南北朝時代)の絹本著色羅漢図二幅(国指定重要文化財)、宋の馬麟筆絹本彩色双雀の図(県指定文化財)、江戸時代初期とされる紙本著色南蛮船風俗図二曲屏風(県指定文化財)、木造文殊菩薩坐像(県指定文化財)など数十点があり、古文書も開山大愚や開基光通の自筆書状をはじめ、明治以後当寺へ併合された安居あご弘祥こうしよう寺文書など数十点を蔵する。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]大畑町大畑 本町

ほん町の南端に位置する。円祥山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「大安寺 円祥山田名部円通寺末寺、曹洞宗」とある。慶安三年(一六五〇)の草創で、開山は田名部たなぶ(現むつ市)円通えんつう寺鷲の法子異寅と伝える(新撰陸奥国誌)。慶長一九年(一六一四)禅達なる者が庵を結び、当寺の礎を築いたともいう(同書)


大安寺
たいあんじ

[現在地名]岩井市矢作 中矢作

東陽とうよう寺の東、ヤトを望む地に所在。密厳山観音院と号し真言宗豊山派。本尊聖観世音菩薩。「泰安寺」と記したこともある。室町時代に心源が開創したと伝え、寛永年間(一六二四―四四)の弘恵が中興開山。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)に「一御朱印高三石、本寺伏木村大政院、真言宗密語山大安寺」とある。明和六年(一七六九)の寺社方調帳(富山家文書)によれば、境内は東西八〇間・南北四〇間。


大安寺
だいあんじ

[現在地名]大島村大平 寺浦

大平おおだいら集落の南東にある。太平山と号し、本尊は釈迦牟尼。寺伝によれば、顕聖寺けんしようじ(現浦川原村)の曹洞宗顕聖寺の末寺として永禄元年(一五五八)創立。開基は僧是廓。

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改訂新版 世界大百科事典 「大安寺」の意味・わかりやすい解説

大安寺 (だいあんじ)

奈良市にある真言宗の寺。南都七大寺の一つ。639年(舒明11)十市郡の百済(くだら)川のほとりに建てられた百済大寺に始まり,673年(天武2)高市郡に移って高市(たけち)大寺と称し,677年大官大寺と改称。さらに平城遷都の際,716年(霊亀2)左京六条四坊に移転し,大安寺と名を変えた。造営には遣唐留学僧の道慈が参与し,長安の西明寺をモデルにしたといわれ,東大寺,西大寺と並んで南大寺とも称された。伽藍の大きさや資産は,747年(天平19)の《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》に詳しい。奈良時代は三論宗の拠点で,大安寺流と呼ばれたが,829年(天長6)空海が別当となってから真言宗の寺となった。9世紀後半のころ神仏習合思想により,行教(ぎようきよう)が宇佐八幡宮を境内に勧請(かんじよう)した。911年(延喜11)に講堂が,949年(天暦3)に西塔が焼け,1017年(寛仁1)にはほとんどの堂舎を焼失した。のち再建が行われたが,鎌倉時代以降はしだいに衰微し,16世紀末にはわずかに金堂を残すのみで,1711年(正徳1)高籤(こうせん)が再興を試みたが,進まなかった。律令時代には国家の造営にかかる大寺として,その由緒と偉容を誇った七大寺のうち,当寺だけが中世に衰えたのは,南都仏教復興という時代の波に乗る人材を欠いたことによるものと思われる。
大官大寺
執筆者:

旧金堂,講堂周辺から二彩および緑釉の垂木先瓦,軒平瓦,軒丸瓦や塼(せん),道慈請来品を含むと思われる唐三彩の陶枕(三十数個)や壺などが出土しており,創建大伽藍の華やかさがしのばれる。十一面観音菩薩像(重要文化財)をはじめとする8世紀後半から9世紀初頭にかけての一群の木造尊像が残存し,なかでも千手観音(伝馬頭観音),楊柳観音菩薩像(いずれも重要文化財)などは初期密教彫像として貴重である。なお《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》(重要文化財)は,奈良市菩提山町の正暦(しようりやく)寺に伝えられている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大安寺」の意味・わかりやすい解説

大安寺(奈良市)
だいあんじ

奈良市大安寺町にある高野山(こうやさん)真言(しんごん)宗の別格本山。南都七大寺のうち東大寺に次ぐ大寺で、古来、百済大寺(くだらおおでら)(百済寺)、大官大寺(だいかんたいじ)、大寺(おおでら)、南大寺(なんだいじ)とも称せられた。現在は癌(がん)封じの寺としても知られる。617年(推古天皇25)に聖徳太子の発願(ほつがん)により、平群(へぐり)郡熊凝(くまごり)村(大和郡山(やまとこおりやま)市)に一宇を建立し熊凝精舎と称したのがその初めと伝える。639年(舒明天皇11)に百済(くだら)川のほとりに移り百済大寺と称したが、やがて火災にあい、以後修復に努め、673年(天武天皇2)伽藍(がらん)を高市(たけち)郡に移し、高市大寺(たけちのおおでら)と称し、さらにのちに大官大寺と改めた。710年(和銅3)の平城遷都とともに当寺も新都の左京六条四坊に移された。平安前期に編まれた『続日本紀(しょくにほんぎ)』に当寺のことが記されている。718年(養老2)に唐から帰朝した道慈(どうじ)はここで三論(さんろん)宗を講説し、721年(養老5)には行基(ぎょうき)が100人の僧を度した。815年(弘仁6)最澄(さいちょう)は当寺において天台を講じ、829年(天長6)空海が別当に補された。当寺は三論・成実(じょうじつ)・華厳(けごん)・律(りつ)の諸宗を兼学したが、とくに三論宗の根本道場として重きをなし、その所伝を大安寺流という。壮大な伽藍配置は大安寺式とよばれるが、数次の火災などにより鎌倉期以後は衰退し、わずかに残っていた金堂も延享(えんきょう)年間(1744~1748)崩壊した。1889年(明治22)橿原(かしはら)神宮造営に際し、当寺の礎石の大部分が運び去られて荒廃したが、1912年(大正1)に至ってようやく堂舎再建の運びとなり、現在の堂宇が建てられた。本堂には秘仏十一面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像が安置され、嘶(いななき)堂には秘仏千手観音(せんじゅかんのん)立像(馬頭(ばとう)観音像とも)、収蔵庫(讃仰殿(さんごうでん))には不空羂索(ふくうけんさく)観音立像、楊柳(ようりゅう)観音立像、聖(しょう)観音立像各一体、および四天王立像(以上いずれも国の重要文化財)を蔵している。これらは日本彫刻史上、大安寺様式と称せられ、いずれも天平(てんぴょう)末期から平安初期につくられた一木造の貴重な遺品である。なお当寺には空海が将来したと伝える周尺が保存されていて、古来これを大安寺尺と称している。寺の南約1キロメートルの所に大安寺の塔跡がある。

[祖父江章子]


大安寺(大阪府)
だいあんじ

大阪府堺(さかい)市南旅籠(みなみはたご)町にある臨済(りんざい)宗東福寺派の寺。山号は布金山。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1394年(応永1)聖一(しょういち)国師円爾弁円(えんにべんえん)5世の法孫である徳秀士蔭(とくしゅうしいん)によって開かれた。本堂(国の重要文化財)はもと堺の豪商納屋助左衛門(なやすけざえもん)の書院と伝え、七宝(しっぽう)をちりばめ華美を尽くした結構を戦国時代の武将松永久秀(ひさひで)が見て驚き、「物は満つれば欠けるもの」といって刀で切りつけた跡をそのまま残している。内部には西湖(せいこ)図の襖(ふすま)4枚、同貼壁(はりかべ)3か所があり、また腰高障子は金沙(きんしゃ)、あるいは金箔(きんぱく)を押したもので、狩野元信(かのうもとのぶ)の筆。藤(ふじ)の図、枝添松(えだそえまつ)の図、檜(ひのき)の図、猿猴(えんこう)の図、梅の図、鶴(つる)の図などの絵襖は金箔押し。障壁画76面が国重要文化財に指定されている。

[菅沼 晃]

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百科事典マイペディア 「大安寺」の意味・わかりやすい解説

大安寺【だいあんじ】

奈良市大安寺にある高野山真言宗(古くは三論宗)の寺。本尊十一面観音。南大寺,大寺(おおてら)とも。639年百済河畔に建立された百済大寺に始まり,674年現在の明日香(あすか)村に移して高市(たけち)大寺と称し,九重塔を建て大官大寺(だいかんおおてら)と改称。717年平城京に移し,729年僧道慈が改造して大安寺とした。南都七大寺の一つ。聖武天皇により特別の保護を加えられたが,たびたびの火災で衰え,現在は1堂を残す。大安寺旧境内(史跡)はその遺跡。天平末期の大安寺様と呼ばれる仏像数体が伝わる。
→関連項目縁起物寺社縁起大安[町]大官大寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大安寺」の解説

大安寺
だいあんじ

南大寺とも。奈良市大安寺にある高野山真言宗の寺。南都七大寺の一つ。天武朝以来の大官大寺を大安寺と改称,平城遷都にともない716年(霊亀2)から平城左京6条4坊の地に造営が開始された。天平年間に完成。造営には入唐留学を修した道慈(どうじ)の知識がいかされ,大安寺式とよぶ伽藍配置をとった。東大寺造営以前は国家第一の大寺で,審祥(しんじょう)・菩提僊那(ぼだいせんな)・道璿(どうせん)・仏哲(ぶってつ)らの渡来僧が当寺に住し,大安寺流と称される三論宗を中心に教学研究が振興した。829年(天長6)空海が別当となって以降は真言宗。光仁(こうにん)・桓武両天皇も保護を加えたが,平安時代になってたびたび火災にあい衰退。寺宝の楊柳(ようりゅう)観音立像をはじめとする木造観音立像5体と四天王立像は一木造(いちぼくづくり)で浮彫模様などに特色があり,奈良時代から平安時代への移行期の彫刻として大安寺様式とよばれる。いずれも重文。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大安寺」の意味・わかりやすい解説

大安寺
だいあんじ

奈良市大安寺町にある寺。南都七大寺の一つ。平城遷都に際し,大官大寺を飛鳥から移して大安寺と称したもので,造営には道慈が唐の新様式を取入れたと伝えられる。南大門外に東西両塔を配した大伽藍であったが,中世以後衰え,古い建物はまったく残っていない。第2次世界大戦後発掘調査が行われ,当初の伽藍配置が確かめられた。また,同寺に遺存する『聖観音』など9体の木像群は,彫刻史上大安寺派とも呼ばれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大安寺」の解説

大安寺
だいあんじ

奈良市大安寺町にある真言宗の寺院。南都七大寺の一つ
617年聖徳太子建立の熊凝 (くまごり) 寺が,寺地をかえ百済 (くだら) 大寺・高市大寺(大官大寺)となり,平城遷都後左京に移り,729年の僧道慈による改造後大安寺といわれた。大安寺様式と呼ばれる天平末期の『十一面観音像』『楊柳 (ようりゆう) 観音像』などを蔵し,日本彫刻史上重要。東西の塔が南大門の外にある伽藍 (がらん) 配置は大安寺式と呼ばれる。

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デジタル大辞泉プラス 「大安寺」の解説

大安寺

奈良県奈良市にある寺院。高野山真言宗。本尊は十一面観音。聖徳太子が平群(へぐり)に建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が起源と伝わる。各地を転々とし、都度寺名も変わったが、平城遷都の際に現在地に移転、現名称となる。南都七大寺のひとつ。旧境内に杉山古墳がある。

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事典・日本の観光資源 「大安寺」の解説

大安寺

(奈良県奈良市)
南都七大寺」指定の観光名所。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「大安寺」の解説

大安寺
だいあんじ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治37(大阪・天満座)

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世界大百科事典(旧版)内の大安寺の言及

【寺院建築】より

…創建伽藍は百済式で,三面僧房が中門の東西方まで延びて中門とは回廊で連結する。この形式は唐の西明寺を模したと伝えられる日本の大安寺伽藍と類似する点で興味深い。
[新羅]
 新羅は唐と結んで660年に百済を,668年に高句麗を滅ぼして半島を統一した。…

【奈良時代美術】より

…これらが天智朝創建時のものとすれば,最新の様式が流入していたと考えられ,新様式受容の迅速さに驚かされる。このほか668年(天智7)百済大寺に乾漆丈六釈迦像が造られたことが《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》より知れるが,乾漆像として日本最古の史料であり,天平時代に盛行する乾漆技術が,すでに天智朝にその成果を結実していたのである。
[量産化の原点]
 前代の木彫像や金銅像に対して,塑像,塼仏,乾漆像などがにわかに登場するのは何を意味するのであろうか。…

【南都七大寺】より

…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…

※「大安寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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