大国郷(読み)おおくにごう

日本歴史地名大系 「大国郷」の解説

大国郷
おおくにごう

和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。播磨国印南郡にも同名郷があり、「於保久尓」(東急本)の訓が付されている。郷名は貢進仕丁歴名帳かと思われる天平勝宝五年(七五三)以前の正倉院丹裏文書に「山代忌寸志麻守年十八河内国石川郡大国郷戸主山代忌寸豊足戸口」とみえる。また延暦一九年(八〇〇)六月二一日付山城国紀伊郡司解案(仁和寺文書)に、河内国志紀郡井於いのえ郷の城原連三仲の言として、「己家以銭壱拾陸貫陸佰文価直、常地売与同国石川郡大国郷戸主従六位上錦部連豊人戸従七位下錦部連姉既訖、望請、依式欲券」とある。石川郡に隣接する錦部にしごり郡を本拠とする錦部連の人々が、大国郷にも住んでいたことがわかる。

大国郷
おおくにごう

「和名抄」は諸本とも訓を欠く。郷名の初出は藤原宮跡出土木簡で、「依知郡□□□(大国里カ)」とある。郷名は吉田文書・赤星鉄馬氏所蔵文書・東京大学史料編纂所所蔵文書・根岸文書などの大国郷売券に頻出し、その初出である延暦一五年(七九六)九月二三日の近江国大国郷墾田売券(吉田文書)には「大国郷戸主鳴削乙麻呂」とあり、また墾田主秦東人・保長依知秦公宅成・保子依知秦公家成・大領依知秦公・権大領依知秦公足上・少領依知秦公などとみえ、当郷でも秦氏の分布が著しい。天長元年(八二四)一〇月一一日の近江国大国郷野地売券(赤星鉄馬氏所蔵文書)によれば、郷内に高野たかの村があり、合一二〇町の内訳は野地五七町・畠地三町・山六〇町で、そのなかに山地の四至が記されるが、それらが具体的にどこにあたるかは西限の愛知川以外には明白ではない。

大国郷
おおくにごう

「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠く。天平一七年(七四五)九月のものと思われる智識優婆塞等貢進文(正倉院文書)に郷名が所見、天平宝字五年(七六一)一一月二日付山背国宇治郡大国郷家地売券(正倉院文書)では宇治姓の居住が知られる。なお「日本書紀」垂仁天皇三四年三月条に、大国の地から綺戸辺苅幡戸辺の姉妹が天皇の後宮に迎えられ、苅幡戸辺は石田君の祖先五十日足彦命を産んだという記事がある。

大国郷
おおくにごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「於保久尓」。「播磨国風土記」に大国里とみえ、地名百姓の家が多く存在することによると記される。現高砂市の伊保いほ山や、同山北麓の同市阿弥陀町生石あみだちようおうしこにある生石神社石の宝殿いしのほうでん説話にみられる。天平一九年(七四七)勘録の大安寺伽藍縁起并流記資財帳(国立歴史民俗博物館蔵)に印南郡五町として「伊保東松原」とある。

大国郷
おおくにごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、元和古活字本の訓は「於保久爾」で、伊勢本・東急本の訓「於保糸」も「於保久尓」の誤りと考えられるので、「おおくに」と読む。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条、高山寺本「和名抄」駅名にみえる久爾くに(久尓駅、駅馬数一〇疋)を「古今著聞集」巻一九にみえる「莚田駅」と同一と考え、その説話に槻の木が登場するので月隈に関係するとみて、当郷を現在の福岡市博多区上月隈かみつきぐま・下月隈・板付いたづけ付近とする説(続風土記・大日本地名辞書)のほか、博多区青木あおきを遺称地とみる説(日本地理志料)もある。

大国郷
おおぐにごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも大国と記すが、ともに訓を欠く。現仁摩にま町大国町を遺称地とする。現同町大国町・仁万にま町・馬路まじ町など(大日本地名辞書)、または仁摩町大国町、大田市大屋おおや町地区・久利くり佐摩さまなどに比定される(島根県史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報