大国郷
おおくにごう
「和名抄」は諸本とも訓を欠く。郷名の初出は藤原宮跡出土木簡で、「依知郡□□□」とある。郷名は吉田文書・赤星鉄馬氏所蔵文書・東京大学史料編纂所所蔵文書・根岸文書などの大国郷売券に頻出し、その初出である延暦一五年(七九六)九月二三日の近江国大国郷墾田売券(吉田文書)には「大国郷戸主鳴削乙麻呂」とあり、また墾田主秦東人・保長依知秦公宅成・保子依知秦公家成・大領依知秦公・権大領依知秦公足上・少領依知秦公などとみえ、当郷でも秦氏の分布が著しい。天長元年(八二四)一〇月一一日の近江国大国郷野地売券(赤星鉄馬氏所蔵文書)によれば、郷内に高野村があり、合一二〇町の内訳は野地五七町・畠地三町・山六〇町で、そのなかに山地の四至が記されるが、それらが具体的にどこにあたるかは西限の愛知川以外には明白ではない。
大国郷
おおくにごう
「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠く。天平一七年(七四五)九月のものと思われる智識優婆塞等貢進文(正倉院文書)に郷名が所見、天平宝字五年(七六一)一一月二日付山背国宇治郡大国郷家地売券(正倉院文書)では宇治姓の居住が知られる。なお「日本書紀」垂仁天皇三四年三月条に、大国の地から綺戸辺・苅幡戸辺の姉妹が天皇の後宮に迎えられ、苅幡戸辺は石田君の祖先五十日足彦命を産んだという記事がある。
大国郷
おおくにごう
「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「於保久尓」。「播磨国風土記」に大国里とみえ、地名は百姓の家が多く存在することによると記される。現高砂市の伊保山や、同山北麓の同市阿弥陀町生石にある生石神社の石の宝殿が説話にみられる。天平一九年(七四七)勘録の大安寺伽藍縁起并流記資財帳(国立歴史民俗博物館蔵)に印南郡五町として「伊保東松原」とある。
大国郷
おおくにごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、元和古活字本の訓は「於保久爾」で、伊勢本・東急本の訓「於保糸」も「於保久尓」の誤りと考えられるので、「おおくに」と読む。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条、高山寺本「和名抄」駅名にみえる久爾駅(久尓駅、駅馬数一〇疋)を「古今著聞集」巻一九にみえる「莚田駅」と同一と考え、その説話に槻の木が登場するので月隈に関係するとみて、当郷を現在の福岡市博多区上月隈・下月隈・板付付近とする説(続風土記・大日本地名辞書)のほか、博多区青木を遺称地とみる説(日本地理志料)もある。
大国郷
おおぐにごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも大国と記すが、ともに訓を欠く。現仁摩町大国町を遺称地とする。現同町大国町・仁万町・馬路町など(大日本地名辞書)、または仁摩町大国町、大田市大屋町地区・久利町佐摩などに比定される(島根県史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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