慈敬寺(読み)じきようじ

日本歴史地名大系 「慈敬寺」の解説

慈敬寺
じきようじ

[現在地名]高島町鴨

かも宿鴨しゆくがもにある。堅田山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。高島町黒谷くろだにの慈敬寺と寺基を同じくする。

近江若狭・越前寺院神社大事典〉

〔開創経緯〕

寺蔵の慈敬寺由来によると、本願寺八世蓮如が文明三年(一四七一)北陸へ下向するさい堅田新在家かたたしんざいけ(現滋賀県大津市)に小宇を建立したことに始まる。明応三年(一四九四)再興され、蓮如息男の蓮淳により兼帯され、本法寺院と称された。三代実賢のときに本願寺実如より称徳寺の寺号を与えられたが、この時期につき司鑰録(西本願寺蔵)は文亀三年(一五〇三)と永正三年(一五〇六)の二説を記す。四代実誓のときに本願寺証如により慈敬寺と改められた。開創について、「本福寺由来記」「本福寺跡書」は別の説を記している。二代を蓮淳とすることについても、堅田慈敬寺系図(鴨慈敬寺蔵)は蓮如の次に蓮淳ではなく実賢を記し、本法寺院は蓮淳の隠居所の名称かと疑義を呈する由緒書(龍谷大学蔵)も存在する。


慈敬寺
じきようじ

[現在地名]高島町黒谷

浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。もとは高島町かもの慈敬寺と寺基を同じくする。元亀元年(一五七〇)浅井・朝倉両氏と織田信長が抗争した時、石山本願寺(大坂御坊)信長に対抗し石山合戦が始まるが、慈敬寺はその際湖西門徒の中心寺院として指導権を発揮する。同年一二月三日の志賀・高島・三浦門徒各衆中宛の下間丹後法印証念書状(三浦講中文書)に「去月廿六日於堅田不慮合戦、其方各手前無比類働(中略)猶以慈敬寺殿被申談、切々可被抽忠節事肝要候」とあり、慈敬寺の湖西門徒に対する指導がうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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