高島町(読み)たかしまちよう

日本歴史地名大系 「高島町」の解説

高島町
たかしまちよう

[現在地名]西区高島一―二丁目・みどり

明治三年(一八七〇)神奈川県布達で、鉄道敷設のため野毛のげ石崎いしざき(現中区)から青木あおき町海岸(現神奈川区)までの七七〇間、幅三五間を一三五日間で埋立築堤し、中央五間を鉄道用地とするほかは貸与するとの条件で埋立者を公募した。応募者はなく、江戸生れの工事請負業者で高島易断の創始者高島嘉右衛門にゆだねた。高島は同四年二月に竣工させ、鉄道用地と左右三間ずつの公道を政府に献じた。翌五年、鉄道用地を除き高島町一―一一丁目と命名された(横浜沿革誌)。鉄道用地には同四年九月、日本最初の鉄道停車場が建設され、翌五年五月横浜―品川しながわ間で仮営業を始め、九月に横浜―新橋しんばし間が正式に営業された。横浜の人々は「横浜ステンショ」とよんだ。同年吉原よしわら(現中区)にあった遊郭が鉄道線路わきに移され、同一五年四月に真金まがね町・永楽えいらく(現南区)に移転するまで紅灯がともり続けた。


高島町
たかしまちよう

面積:六三・二〇平方キロ

琵琶湖西岸の高島郡南東端に位置し、北は安曇川あどがわ町、西は朽木くつき村、南は滋賀郡志賀しが町に接する。かも川が町内を貫流するが、河口は安曇川町域である。鴨川流域に水田が開け、用水もこの川を利用している。湖岸に沿って国道一六一号とJR湖西線が通る。鴨川下流域には古墳が多く、音羽おとわ古墳群、稲荷山いなりやま古墳などがある。また永田ながた遺跡や鴨遺跡は平安時代の集落遺跡と考えられており、墨書土器・木簡などを含む豊富な遺物が、古代の豪族三尾氏との関連で注目される。継体天皇の出生地三尾別業みおのなりどころは、「和名抄」の三尾郷に続く地名で、鴨川下流の安曇川町から当町にかけて存在したと考えられている。


高島町
たかしまちよう

面積:一・二七平方キロ

長崎半島の西約四・五キロにある高島(面積一・一六五平方キロ)などを町域とする。高島の北にとび(〇・〇三平方キロ)があり、南になかノ島(〇・〇三平方キロ)、その南西に(〇・〇六平方キロ)がある。北方に伊王島いおうじま町、北東に香焼こうやぎ町があり、東に三和さんわ町・野母崎のもざき町を望む。高島にはかつて上二子かみふたご島・下二子島の二島があったが、採炭に伴うボタで明治末年までに埋立てられ、地続きになった。さらに昭和一〇年(一九三五)の海面埋立で高島と二子島がつながり、高島一島となった。県道の高島線が島内を巡る。

律令制下では彼杵そのき郡のうちであったと想定され、中世は彼杵戸町とまち浦のうちと考えられる。室町期にかけて有力な勢力であった深堀氏は戦国期に肥前佐賀龍造寺氏のもとで大村純忠やその家臣の長崎純景と対立、天正一二年(一五八四)龍造寺隆信の敗死後は一時大村氏の支配下にあったが、のち龍造寺氏の旧臣であった鍋島直茂の所領となり、同一五年豊臣秀吉による九州仕置を迎える。


高島町
たかしまちよう

[現在地名]北区東天満ひがしてんま一丁目

典薬てんやく町の仏照ぶつしよう(現天満別院)を挟んだ西にある。天満六丁目・同七丁目の北に続く両側町で、南は仏照寺通から北は天神裏門てんじんうらもん筋まで。初発言上候帳面写には帯屋おびや町が高島町になったとあり、明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には南北二筋に「帯や町」、天神裏門筋で当町二筋の間に「おひや町」とある。明暦―寛文年間(一六五五―七三)の近世大坂地図には南北二筋のみが「帯ヤ町」と記される。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数二六・役数三四役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。


高島町
たかしまちよう

上京区丸太町通河原町西入

町の東側を河原町かわらまち通、西側を新烏丸しんからすま通が南北に通り、南東角は丸太町まるたまち通。明治三年(一八七〇)福島ふくしま町と高砂たかさご町の半分(他は錦町と合併し現錦砂町)が合併して成立した。

元禄四年(一六九一)京大絵図には「教安寺、生蓮寺」などの寺院が記され、宝永五年(一七〇八)の大火以後、町地となった(坊目誌)


高島町
たかしまちよう

[現在地名]小樽市高島四―五丁目

昭和一一年(一九三六)高島郡高島町大字高島町が大字を廃し、南高島町北高島町・高島町に分割、字名として設置された。このうち高島町の字名は同一五年小樽市に合併後も継承されたが、同三二年西高島町と改称された。この間、昭和一一年より同三二年までは字名として、同三二年より同四四年までは字を廃して町名として用いられた。


高島町
たかしまちよう

大正一一年(一九二二)より昭和一五年(一九四〇)まで存続した町。大正一一年五月高島村は高島町と改称。昭和八年乗合馬車が運行、同一二年バス運行が始まった。基幹産業の鰊漁は衰退、発動機船による沖合漁業などへの転換が図られ、昭和五年頃に高島湾内の弁天べんてん島に防波堤工事を施したが、町のみの整備には限界があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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