室町時代の僧。真宗本願寺第8世宗主で、中興の祖と称される。幼名幸亭、布袋、諱(いみな)は兼寿(けんじゅ)。信証院と称し、1882年(明治15)に慧燈(えとう)大師の諡号(しごう)を受ける。本願寺第7世存如(ぞんにょ)(1396―1457)の長子として生まれたが、生母は不詳。6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳にして一宗再興の志願をたてたという。17歳で青蓮院(しょうれんいん)で得度して修学に励み、また父を助けて聖教書写などを行い、1449年(宝徳1)35歳のとき、父とともに北陸から関東・東北を巡化(じゅんげ)。父存如が1457年(長禄1)に没すると、異母弟との争いののち本願寺第8世を継職した。その直後から近江(おうみ)(滋賀県)を中心に活発に布教を開始したため叡山(えいざん)の反感を受け、1465年(寛正6)には本願寺を破却された。1471年(文明3)越前(えちぜん)(福井県)の吉崎(よしざき)に道場(吉崎御坊)を開いて住するや、1~2年のうちに門徒が群集し、寺内町が形成された。それには、消息(しょうそく)形式で教義を平易に説いた『御文(おふみ)』(『御文章(ごぶんしょう)』)とよばれる伝道文書や、『正信偈和讃(しょうしんげわさん)』の開板などの、独創的教化活動が大きな力となっていた。
こうして吉崎坊舎が大きな勢力となると、加賀(石川県)・越前の争乱に巻き込まれ、1475年には吉崎を退去し畿内(きない)に戻ったが、この間に一向一揆(いっき)の勃発(ぼっぱつ)をみた。1483年には山城(やましろ)(京都府)の山科(やましな)に本願寺を造営し、北陸・東海・畿内に多くの門末を擁する本願寺教団の再興を成し遂げた。1489年(延徳1)退隠し、五男の実如(じつにょ)(1458―1525)に本願寺住持職を譲ったのち、摂津(せっつ)(大阪府)石山に坊舎を造営して住した。後の石山本願寺の地である。13男14女という多数の子女を各地に配して本願寺の藩屏(はんぺい)とし、また本尊などの下付によって地方有力寺院を傘下に吸収するなどの方法によって本願寺教団を統制した。また教義的には、阿弥陀(あみだ)仏の本願を信ずることが浄土に往生(おうじょう)する正しい因であり、名号(みょうごう)を称(とな)えるのは弥陀の救済に対する報恩の念仏であるとする「信心正因称名(しんじんしょういんしょうみょう)報恩」を説いて親鸞(しんらん)の教義を明確化し、あわせて内心には深く他力の信心を蓄え、世間に処するには王法(おうぼう)を守って国憲に従うべきとする「王法為本(おうぼういほん)信心内心」を強調し、真宗的倫理観を確立した。
[大桑 斉 2017年10月19日]
『笠原一男・井上鋭夫編『日本思想大系17 蓮如 一向一揆』(1972・岩波書店)』▽『笠原一男著『蓮如』(1963/新装版・1986・吉川弘文館)』▽『菊村紀彦著『蓮如――その人と行動』(1975・雄山閣出版)』▽『森龍吉著『蓮如』(講談社現代新書)』
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1415.2.25~99.3.25
室町中期~戦国期の浄土真宗の僧。諱は兼寿。父は存如。少年期に本願寺再興を決意し,父に宗学を学び真宗教義への理解を深めた。1447~49年(文安4~宝徳元)東国に赴き親鸞関係の遺跡を巡り,57年(長禄元)本願寺8世となった。以後,近江門徒の掌握を行ったため比叡山との関係が悪化し,65年(寛正6)本願寺の破却にあった。三河地方の教化ののち,71年(文明3)越前国吉崎に坊舎をたてた。吉崎には門前町が形成されおおいに栄えたが,富樫氏の攻略にあい退去。京都山科に本願寺を再興し,教団隆盛の基礎を築いた。教えは「御文(おふみ)」としてまとめられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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