戸手村
とでむら
[現在地名]新市町戸手
下安井村の南、神谷川の左岸域に位置する。北部は山地、南部は平地で「備後郡村誌」に「山四合田畑六合村ニ御座候、但四歩水損所、六歩旱損所」とある。品治郡に属した。「芦品郡志」に「慶長中、福島氏岩成原の曠原を分割し、二十ケ村を置く、其内上戸手・中戸手・下戸手・江熊市・天王市の五村を合し一としたるもの」とあり、「福山志料」は「伊勢太夫慶長三年配札帳ヲミルニ江熊ノ市宮内新市場ナトニツツキタレハ昔ヨリノ江ノ熊ノ名ハアルトミユ」と記し、また村内にある天王寺の項のなかで「慶長三年伊勢太夫配札帳ニ天王村天王坊トアレハムカシハ此処ヲ天王村トイヒシカ、中コロ戸手村ヘ入シナルヘシ」と江熊市・天王村の存在と位置を推測している。
戸手村
とでむら
[現在地名]幸区戸手本町一―二丁目・戸手一―四丁目・遠藤町・紺屋町・河原町・神明町一―二丁目
東を多摩川が流れ、川沿いに北の小向村から南の南河原村へ長さ一〇〇間の多摩川堤がある。西は塚越村、矢向村(現横浜市鶴見区)に接する。塚越村から分岐した川崎用水が村内を流れ南河原村へ至る。西原・下河原・原耕地などの小字がある。
小田原衆所領役帳には石原「八貫五百文 小机戸手内」、岩本右近「拾五貫文 小机戸手内」とみえる。また田園簿には「戸出村」と記される。
近世初めは幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世領となり、同九年六月久世氏が下総国関宿藩主に封ぜられたため同藩領となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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