日本歴史地名大系 「拾町村」の解説 拾町村じつちようむら 鹿児島県:揖宿郡開聞町拾町村[現在地名]開聞町十町(じつちよう)現開聞町の西部、開聞岳の北麓に位置し、東は仙田(せんた)村、北は郡(こおり)村(現頴娃町)、西は海に臨む。十町村とも記される。初め開聞宮(現枚聞神社)の社地十町方を宮十町(みやじつちよう)村と称していたが、宝永(一七〇四―一一)の初め頃に仙田村のうちの山崎(やまさき)・入野(いりの)・物袋(もつて)・脇(わき)浦および開聞岳の裾回りを合併して十町村と改称した(文政七年「頴娃郷旧跡帳」県立図書館蔵)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に宮拾町村とみえ、高一千六〇石余。元禄一一年(一六九八)の頴娃村里改帳(同館蔵)では高六六七石余、衆中人躰二三人、衆中屋敷一〇ヵ所、竈数は衆中五八(うち社家二七)・百姓五五。 拾町村じつちようむら 鹿児島県:指宿市拾町村[現在地名]指宿市十町(じつちよう)・大牟礼(おおむれ)三―五丁目拾二町(じゆうにちよう)村の北西に位置する。二反田(にたんだ)川下流の狭い地域で、支流秋元(あきもと)川流域は低湿地であったが、天保期(一八三〇―四四)以降灌漑が進んだ(指宿市誌)。十町とも記される。南東部に弥次(やじ)ヶ湯(ゆ)温泉があり、集落は二月田(にがつでん)から弥次ヶ湯にかけて密集する。十町地内に南迫田(みなみさこだ)の通称がある。応永一四年(一四〇七)正月二二日の島津元久袖判沙弥成寄進状(旧記雑録)によると、鹿児島福昌寺末の「迫田光明寺」に「指宿郡内迫田村水田三町并薗六ケ所」が寄進されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by