出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…宇治から茶壺を禁裏などに進献する行事は,すでに室町時代にみられるが,統一政権の成立後は豊臣秀吉や徳川家康の代にその原型ができ,3代将軍徳川家光の1632年(寛永9)より制度化した。初期には茶壺を数寄屋坊主2~3人に持たせ,徒士頭(かちがしら)1人と走衆数人を引きつれて宇治にいたり,御物茶師の上林家らに銘茶を選んで詰めさせ,密封して山城愛宕山上に100余日格納したあと,江戸城に持ちかえって将軍や大奥などの飲用に供し,日光廟・久能山にも供え,一方,禁裏・仙洞へも進献した。その後,5代将軍綱吉の代になると,茶壺の愛宕山格納を廃して,帰路は中山道・甲州道中経由,甲斐都留郡の谷村(やむら)城内の風穴に格納したが,さらに1738年(元文3)には東海道を直送,江戸城内の富士見櫓の上層に納めることになった。…
…坊主衆
[武家の職名]
江戸幕府には同朋頭(若年寄支配)の配下に茶室を管理し,将軍,大名,諸役人に茶を進めることを職務とする奥坊主組頭(50俵持扶持高,役扶持二人扶持,役金27両,御目見以下,土圭間詰,二半場),奥坊主(20俵二人扶持高,役扶持二人扶持,役金23両,御目見以下,土圭間詰,二半場)100人前後,および殿中において大名,諸役人に給事することを職務とする表坊主組頭(40俵二人扶持高,四季施代金4両,御目見以下,躑躅(つつじ)間詰,二半場),表坊主(20俵二人扶持高,御目見以下,焼火間詰,二半場)200人前後があった(この職は大名,諸役人からの報酬が多く,家計は豊かで,そのため奢侈僭越に流れたという)。また茶室に関するいっさいのことをつかさどる数寄屋頭(若年寄支配)の配下に,数寄屋坊主組頭(40俵持扶持高,四季施代金4両,御目見以下,躑躅間詰,二半場),数寄屋坊主(20俵二人扶持高,御目見以下,焼火間詰,二半場)40~100人ほどがあった。このほかには,二条城御殿預(所司代支配)の配下に,坊主(現米10石二人扶持)17人のあったことが知られる。…
※「数寄屋坊主」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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