精選版 日本国語大辞典 「江戸幕府」の意味・読み・例文・類語
えど‐ばくふ【江戸幕府】
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江戸時代、将軍徳川氏の統治機関をいう。1603年3月24日(慶長8年2月12日)徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になったときに開府し、1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還上表を提出したことによって閉じた。この間、将軍は、2代秀忠(ひでただ)から家光(いえみつ)、家綱(いえつな)、綱吉(つなよし)、家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)、吉宗(よしむね)、家重(いえしげ)、家治(いえはる)、家斉(いえなり)、家慶(いえよし)、家定(いえさだ)、家茂(いえもち)と継いだ。
[佐々木潤之介]
将軍徳川氏はもともと武士の棟梁(とうりょう)であり、封建的主従関係の頂点に位置しているとともに、公儀として幕藩制国家の君主としての地位をも占めていた。そこで、その将軍の統治機関としての幕府も、その両面の性格を兼ねもつこととなった。
そこで幕府の機能については、大きく次のようにまとめることができる。
〔1〕幕藩制国家の国家中央権力としての機能。幕藩制国家の国家権力機関は、幕府と、大名の統治機関である藩とからなっていた。藩は、大名領に区分された地方統治機関であったが、その統治の独自性は兵農分離制のもとで著しく制約を受け、幕府を中心とする中央集権的な国家機構の一部を担っているにすぎなかった。
幕府が国家中央権力として果たした機能は、以下のとおりである。
(ア)鎖国制のもとでの対外的国家主権の確立。長崎貿易における貿易独占、キリシタンの禁止と宣教師・信者の弾圧・追放がその例である。同時に、朝鮮に対する対馬(つしま)の宗(そう)氏、中国に対する琉球王府(りゅうきゅうおうふ)―島津氏、アイヌに対する松前氏などの、近隣他民族との関係についての国家的見地からの措置もとられた。
(イ)鎖国制と石高制(こくだかせい)のもとでの国内における国家的支配機能。(1)都市、商品流通の統制・支配の機能。三都(江戸、京都、大坂)をはじめとする主要都市の直轄支配とそれを通じての全国的商業に対する支配、流通支配と不可分に結び付いている貨幣鋳造権の独占、金銀銅など鉱産物に対する独占的統制、全国的交通運輸体制の支配と統制などの機能を果たした。(2)イデオロギー、宗教統制の機能。国家思想としての儒学に基づくイデオロギー体系とイデオローグの編成、キリシタンをはじめとする異端宗教・宗派の国家権力による弾圧・否定と寺社統制権の掌握と支配の機能を果たした。(3)国家支配の正統性論拠としての、伝統的呪術(じゅじゅつ)的権威の取り込みと統制。禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)(禁中并公家中諸法度)に代表される天皇・朝廷の国家権力への包摂を実現し維持する機能を果たした。
〔2〕集権的領主制支配の中央権力としての機能。将軍は幕藩領主制の最高位者であり、その幕藩領主制は兵農分離の過程の所産として、統一的・集権的特質をもっていたから、将軍を君主とする国家統治機関としての幕府は、領主制権力中央機関としての性格をも強くもっていた。徳川氏は、その領主制的性格においては、日本全国の土地(約3000万石)の土地所有者であった。他方、徳川氏は、大名(御三家(ごさんけ)、親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)に区分される)、旗本、御家人(ごけにん)よりなる直属家臣団を擁していた。このうち、大名と一部の旗本とは将軍から知行(ちぎょう)として所領を宛行(あてが)われ、それぞれにその所領支配をゆだねられていた。この部分を私領といい、その総額は約2300万~2500万石であった。旗本の他の部分と御家人とは、将軍から知行として禄米(ろくまい)を与えられて、支配所領をもたなかった。これらの直属家臣団と将軍との関係は、基本的には知行給与と御恩・奉公としての軍役関係によって貫かれていた。しかし同時に、これらの直属家臣団、とくに親藩、譜代大名、旗本、御家人は幕府行政の担当者でもあった。
この関係のもとで、幕府が果たした機能の一つは、約700万石の御領(幕府直轄領。天領ともよばれるようになった)支配であった。御領からの年貢諸役の収入は、前記の禄米と、幕府の行政経費と、将軍の家財政との主要な財源だったのである。そしてそのことは、集権的国家財政の主要な財政基礎であるということをも意味した。こうして幕府は、重要な機能の一つとして「地方(じかた)」支配を行った。そしてこの幕府の財政機能は、将軍財政が幕府財政と統合されていたから、将軍財政の財政機能をも果たすことになった。
同時に、幕府は、大名以下の武士団の結合の機関でもあった。武家諸法度に示されるように、集中と統一の原理に基づいて、武士団の結束を固めることが至上命令とされ、これに反する者は、将軍のもとに統一的に集結している圧倒的に強大な軍事力を背景にした、改易・移封・減封という懲罰方法によって処分された。
[佐々木潤之介]
幕府のこれらの機能は、一挙に形成されたものではなかった。関ヶ原の戦い後、西軍の諸大名の所領没収や減・転封と譜代大名への所領配分を終わってのち、畿内(きない)の諸都市をはじめとする都市の直轄支配への組み込み、貨幣鋳造権の独占と鋳貨、農政の基本方針の決定などのことは、幕府が開府される前にすでに進行したことであった。
開府後2年で家康は秀忠に将軍職を譲ると駿府(すんぷ)(静岡市)に移ったが、なお幕政の実権を握っていた。家康は秀忠に軍事政権としての徳川政権の強化を任せ、自らは駿府で本多正信(ほんだまさのぶ)らを重用して、国政にかかわる財政から貿易、キリシタン問題などを扱っていた。この体制を駿府・江戸両政権併立の体制という。やがて、大坂の陣の帰趨(きすう)が明らかになるころから、陣後にかけて、家康は、軍役規定の改定、一国一城令、五山をはじめとする仏教諸宗への法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度の制定、畿内の御領への組み込み、大坂・堺(さかい)支配などの重要政策を次々と強行したうえで、1616年(元和2)に病死した。両政権併立時代は終わり、幕府は江戸に一本化されたが、家光時代の幕府体制の確立は、秀忠の死(1632)後に始まった。後の若年寄(わかどしより)の先駆である六人衆の設置、溜詰(たまりづめ)の始まりとされる補佐役の任命、駿府・京都などの町奉行(まちぶぎょう)の新・再置、作事(さくじ)・書物方(かきものかた)などの奉行や大目付の設置など諸役が整えられるとともに、評定所(ひょうじょうしょ)取扱規定や、老中・若年寄以下の幕府職務規定が定められ、ついで武家諸法度や軍役規定の改定を行った。同時に1633年(寛永10)に第1回の鎖国令が出た。一方で、大坂を中心とする国内の経済体制を整えながら、鎖国は進められていき、1637年の天草・島原の乱を経て、1639年に鎖国は完成した。それに続いて、凶作による農村立て直しを機に、新たな「地方(じかた)」支配の方向が追求され、展開していく。田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)(1643)から慶安御触書(けいあんのおふれがき)(1649)に至る経緯はその所産であった。
参勤交代制も譜代大名の交代制までを含めて1642年に確立したし、幕府財政・勘定方制度の確定や、年貢米の大坂への廻米制(かいまいせい)、大坂・江戸の町方制度の整備等々のことが行われたのも、1643年(寛永20)から1651年(慶安4)までの間のことであった。そして、幕府の中央国家権力としての絶対的地位の確立を示すのが、正保(しょうほう)の国絵図と郷帳の作成(1644)であったといわれる。
[佐々木潤之介]
家康・秀忠時代、幕政の国政的側面を担当したのは、大久保長安(おおくぼながやす)らの出頭人(しゅっとうにん)とよばれる人々であった。それは封建的主従関係の序列とは別の、行政的能力によって登用された者であった。家光時代に至り、幕府職制が確定するにつれて、譜代大名・旗本の国政上の役割が明らかにされるようになり、分役制度によって、彼らによる幕政の実際が運用されることとなった。そしてそのことは、譜代大名・旗本の、幕藩制的官僚化をも進めた。将軍の直属家臣団は、軍事的体系である番方(ばんがた)と、行政的体系である役方(やくがた)との、二つの序列によって編成されることとなった。
将軍の家臣は、それぞれに、将軍との間の封建的体系と秩序のなかに位階制的に編成され、その序列は格として定められていた。したがって、軍事的序列と行政的序列とは、この格によって対応させられることとなった。
このように形成された幕藩制的官僚が担い手となった幕政は、家光時代に続く寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)年間(1661~1681)に展開した。この時期は、幕府体制や幕政の諸機構の整備と、幕政の展開によって、幕藩体制の確立期ともいわれる。しかし、現実の戦争状態と可能性とが遠ざかり、国内の社会経済が変動しつつ進展してくるにつれて、格は軍事的序列との間には矛盾がないものの、行政的な資質と能力とを必要とし、それによって体系だてられるべき、行政的体系・秩序との間に矛盾関係が出てくるのは当然であった。また、官僚制的機構が確立したとはいっても、なお将軍の公儀としての絶対的権力が前提となっており、将軍の独裁性は保持されていた。
そこで、17世紀末ごろから、幕政の主導権は不安定に変転していった。(1)将軍がその政治的実権を自ら行使した場合(綱吉時代、吉宗の享保(きょうほう)の改革など)、(2)将軍の政治的無能力を前提として、格序列に基づく行政担当者が実権を掌握した場合(寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革など)、(3)行政的能力によって登用され、格序列はその登用につれて変動していった者が実権を握った場合(側用人(そばようにん)政治の時代や正徳(しょうとく)の治、田沼時代など)に分けることができる。しかし、江戸時代を通じて、開国に至るまで、幕府とその政治は、一貫して、どのように、幕府成立期の状態に即して幕藩体制を立て直すかという方針をとり続けていた。その方針が開国によって否定されたところから、幕府はその倒壊の仕方について、大きく動揺し始めた。安政(あんせい)・文久(ぶんきゅう)・慶応(けいおう)年間(1854~1868)の幕政の改革はその現れであった。
[佐々木潤之介]
『山口啓二・佐々木潤之介著『幕藩体制』(1971・日本評論社)』▽『佐々木潤之介著『幕藩制国家論』(1982・東京大学出版会)』▽『北島正元著『江戸幕府』(1975・小学館)』▽『北島正元著『江戸幕府の権力構造』(1964・岩波書店)』
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徳川将軍家を最高権力者として,江戸に存在した武家による全国支配政権。1603年(慶長8)の徳川家康の征夷大将軍職任命に始まり,1867年(慶応3)の徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還までの265年間,将軍は15代続いた。将軍は全国の大名らとの間に主従関係を結び,改易など大名への処分権を前提に,外様大藩の支配領域などに対しても間接支配を行った。一方幕府組織および軍事力の中核をなしたのは,徳川氏の従来からの家臣の譜代大名や旗本・御家人である。組織は老中および若年寄を中心とする。老中の下には勘定奉行・町奉行をはじめ,大名の監視にあたる大目付・遠国奉行など,全国政権としての幕府の機能に関わる役職が多く存在した。これに対して若年寄の下には,将軍の親衛隊としての書院番頭・小姓組番頭や,新番頭・目付など将軍直属家臣団の指揮に関わる役職が多い。このほか朝廷の護衛・監視および取次などを行う京都所司代,将軍と老中・若年寄の連絡にあたる側用人などがある。財政的基盤としては全国に400万石以上(中期以降)の直轄地をもち,主要な都市・鉱山などを直轄支配して,全国の市場構造を掌握。軍事的には旗本・御家人中心の直属軍をもち,その規模は単独の外様大名のそれをはるかに上回った。しかし長期的には,農民的商品生産の進展に代表される全国市場構造の変化に対応できなかったため慢性的な財政危機を招き,数度の幕政改革による建直しにもかかわらず,幕府の全国政権としての地位は少しずつ傾いていく。幕末期の列強の外圧に対しては,幕藩制的な軍役構造の無力さを露呈。最終的には,鹿児島や萩などの雄藩勢力に全国政権としての地位を否定されるにいたった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ただし藩法という名称は,明治になって用いられたもので,江戸時代には〈家法〉〈国法〉などと呼ばれた。宗門改め,度量衡,交通など江戸幕府の全国的支配権に属することを除けば,藩はかなりの自律を認められ,〈万事江戸之法度の如く,国々所々に於て之を遵行すべし〉(寛永12年武家諸法度)といった限定はあるものの,各藩はそれぞれ別個の藩法を施行した。一方,幕府制定法には,諸大名にも触れ知らせる法と,幕府領のみに発する法とがあった。…
…江戸幕府の職制を記した書物。向山篤(誠斎)編。…
※「江戸幕府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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