斎藤季治郎(読み)サイトウ スエジロウ

20世紀日本人名事典 「斎藤季治郎」の解説

斎藤 季治郎
サイトウ スエジロウ

明治・大正期の陸軍中将



生年
慶応3年7月3日(1867年)

没年
大正10(1921)年2月26日

出生地
和泉国堺(大阪府堺市)

学歴〔年〕
陸士(第11期)〔明治22年〕卒,陸大〔明治30年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲一等旭日大綬章〔大正10年〕

経歴
明治22年陸軍少尉に任官。32年清国政府に招聘され、約5年間に渡って杭州武備学堂の教官を務める。日露戦争では第3軍参謀として旅順攻囲戦に従軍。39年朝鮮駐屯軍参謀となり、40年韓国統監府勤務を兼任。この間、清韓国境に関わる間島問題を担当した。大正2年中国公使館付武官、4年支那駐屯軍司令官を経て、5年中国公使館付武官に再任。7年中将。8年帰国して第11師団長に就任。9年シベリア出兵に参加したが陣中病没した。陸軍内の中国通として知られた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「斎藤季治郎」の解説

斎藤季治郎

没年:大正10.2.26(1921)
生年:慶応3.7.3(1867.8.2)
明治大正期の陸軍軍人。堺の木綿問屋斎藤甚兵衛の4男。明治22(1889)年陸軍士官学校,30年陸軍大学校を卒業。32年清国政府に招聘され杭州武備学堂の教官を5年近く勤め,陸軍「支那通」の道を歩む。日露戦争(1904~05)では旅順攻囲戦に参加し,戦後,大佐で韓国統監府勤務を兼ね清韓国境にかかわる間島問題を直接担当した。その後,ヨーロッパ出張などを経て,大正2(1913)年中国公使館付武官となり,翌年少将に進んで歩兵第30旅団長,支那駐屯軍司令官を歴任し,5年ふたたび中国公使館付武官に就任する。第1次大戦(1914~18)中には日華共同防敵軍事協定の予備交渉に当たった。7年中将に昇進。8年第11師団長に任命され,シベリアに出兵,ウラジオストクで病没。<参考文献>東亜同文会『対支回顧録』下

(戸部良一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤季治郎」の解説

斎藤季治郎 さいとう-すえじろう

1867-1921 明治-大正時代の軍人。
慶応3年7月3日生まれ。近衛師団司令部付から北京公使館付武官となる。大正7年陸軍中将。のち第十一師団長としてシベリアに出征,大正10年2月26日ウラジオストクで病死した。55歳。陸軍部内の中国通として知られた。和泉(いずみ)(大阪府)出身。陸軍大学校卒。名は季次郎ともかく。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「斎藤季治郎」の解説

斎藤 季治郎 (さいとう すえじろう)

生年月日:1867年7月3日
明治時代;大正時代の陸軍軍人。中将;第11師団長
1921年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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