ちゅう‐じょう ‥ジャウ【中将】
〘名〙
① 奈良・平安時代以降、
少将とともに左右近衛府の
次官。正と権
(ごん)とあり、
大将の次位、少将の上位。従四位下相当官。ただし、三位で任ぜられる者も多く、参議でこれを兼任するのが常例。また、蔵人頭
(くろうどのとう)を兼ねる者を頭の中将という。また、外衛府や近衛府の
前身である
授刀衛・中衛府の次官。
※続日本紀‐天平神護元年(765)二月甲子「改二授刀衛一為二近衛府一、其官員、大将一人、為二正三位官一、中将一人、為二従四位下官一」
※
愚管抄(1220)六「実朝先はこれよりさきに、中納言中将申てなりぬ」
※源氏(1001‐14頃)帚木「渡殿に中将とい
ひしが局したるかくれにうつろひぬ」
③
能面の一つ。色白く黛
(まゆずみ)をつけ
殿上人の
容貌をした男面。
在五中将といわれた在原業平を模したといわれるところからの名。「
小塩(おじお)」「雲林院
(うんりんいん)」など公卿が後シテとなるものや、「清経
(きよつね)」「忠度
(ただのり)」など
平家の公達が後シテとなる能に用いられる。〔八帖花伝書(1573‐92)〕
※
建白書(1873)〈
山田顕義〉上「聯隊を合する者を『ブリガード』と云〈略〉『ブリガード』を合する者を『ジビジョン』と云〈略〉中将の司令する所の者也」
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デジタル大辞泉
「中将」の意味・読み・例文・類語
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中将
生年:生没年不詳
戦国から江戸時代初期にかけての武家の女性。市川元利の妻。毛利輝元より側室二ノ丸殿付の女房を命ぜられ,秀就誕生のときよりその養育を担当,「行儀」を教え,老年まで仕えた。輝元から80石を給与され,のち30石は召し上げられたが50石の地は長門国(山口県)大津郡にあり,秀就の承認を得て孫市川就利に譲与された。その後30石を返され,80石の知行地が市川氏に伝領される。中将が育てた自らの孫は,16歳で秀就に出仕している。<参考文献>『萩藩閥閲録』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
中将 ちゅうじょう
?-? 織豊-江戸時代前期の女性。
長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩主毛利秀就(ひでなり)(1595-1651)の養育を担当し,終生つかえた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典内の中将の言及
【能面】より
…瘦男(やせおとこ)や蛙(かわず)は死相を表し,三日月や阿波男,怪士(あやかし)などは神性の表現に特徴がある。平太(へいた)と中将は特に武将の霊に用い,頼政や景清,俊寛など特定の人物への専用面も現れた。喝食(かつしき),童子など美貌若年の面のなかにも,蟬丸や弱法師(よろぼし),猩々(しようじよう)といった特定面ができてくる。…
※「中将」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報