間島問題(読み)かんとうもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「間島問題」の意味・わかりやすい解説

間島問題
かんとうもんだい

間島地方の帰属をめぐる中国(清(しん)朝)・朝鮮・日本間の係争。間島地方は中国東北の南東端に位置し、現在の中国吉林(きつりん/チーリン)省延辺(えんぺん/イエンピエン)朝鮮族自治州がほぼこれにあたる。同地域を北間島(東間島)と称し、白頭山以西の鴨緑江(おうりょくこう)下流域、現在の吉林省長白朝鮮族自治県を西間島とよぶこともあるが、一般に間島地方という場合には前者をさすことが多い。

 間島は朝鮮さらにはソ連との国境地帯にあり、朝鮮人移住者が多かったことから、古来、中国・朝鮮間の国境問題、民族問題の火種となってきた。そしてこの問題は、日本が朝鮮植民地化と中国東北侵略を進めるなかで深刻化した。すなわち日本の朝鮮支配、抑圧の結果として間島へ移住する朝鮮人が急増し(居住者の数は1900年代の7~9万人から、1930年代の四十数万人へ増加)、その数は居住人口の7~8割を占めるに至った。移住者の多くは日本の迫害を受けて朝鮮を離れ、さらに中国人地主のもとで極貧の小作人となった。こうした事情を背景に間島は抗日朝鮮民族独立運動の根拠地となり、また中国人と朝鮮人の間の対立も激化した。

 このような状況に対応して朝鮮統監府は1907年に間島に派出所を設け、軍事要員を配置した。他方、09年の間島協約では、安奉(あんぽう)線改築問題、撫順(ぶじゅん)台と煙台の炭坑還付問題などでの中国側の譲歩を条件に、日本は清朝の間島領有を「承認」した。しかし、協約締結直後から、そしてとくに15年の南満東蒙(なんまんとうもう)条約の成立以降、日本は中国人と朝鮮人の間の対立を扇動しつつ、利権の拡大と抗日運動の弾圧を繰り返した。

[松本俊郎]

『牛丸潤亮・村田懋麿編『最近間島事情』(1927・朝鮮及朝鮮人社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「間島問題」の意味・わかりやすい解説

間島問題
かんとうもんだい

間島地域における清韓両国の国境問題。間島地域 (朝鮮の東北辺境を流れる図們江以北) の帰属をめぐっての清韓両国間の国境画定交渉はことごとく失敗し,清国は図們江 (豆満江) 以北を自国領と主張して軍隊を派遣していたが,1906年韓国政府は韓国民の生命財産保護のための援助を韓国統監に要請,統監府は 07年8月実力をもって間島の龍井村に韓国統監府臨時派出所を設けた。以来日清両国は間島帰属問題につき交渉,互譲的解決をはかることとなり,09年9月4日「間島に関する協約」が締結された。これによって間島地域における清韓両国の国境は図們江をもって定界とし,日本政府は間島を清国領と認め,また清国政府は図們江の北部墾地を雑居地域と認めるにいたった。なおこの地域は 10年の日本の朝鮮支配後,朝鮮人亡命者,反日運動者の拠点となり,20年日本軍隊による,琿春事件 (間島事件) が発生,多くの犠牲者を出した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「間島問題」の解説

間島問題(かんとうもんだい)

満洲東南部の朝鮮に接する延吉(えんきつ)市ほか6県を含む,いわゆる間島地方の帰属に関する清国と朝鮮との間の係争。清朝はこの地方を清朝発祥の地として神聖視し,国初以来人民の居住を禁止していたが,朝鮮人が侵入し始めたので,1712年朝鮮との間に現在の国境線を画定して侵入を取り締まった。19世紀中期以後,再び朝鮮人の侵入が盛んになったので,1881年清朝は朝鮮人を間島から退去させるよう朝鮮王朝に要求したが,朝鮮王朝は間島を自国領と主張して譲らず,両国間の係争問題となった。1905年朝鮮を保護国とした日本は,一時官吏を派遣して間島の統治にあたらせたが,09年清国と間島協約を結び,満洲における鉄道利権と交換に,間島地方を清国領として認めた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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