斎藤寛斎(読み)さいとう・かんさい

朝日日本歴史人物事典 「斎藤寛斎」の解説

斎藤寛斎

没年:明治19.3.2(1886)
生年:文政4.2(1821)
幕末維新の草莽志士,教育者。最初常次郎,志士名は源次郎,寛斎。上総国武射郡山中村(千葉県芝山町)の出身。父は鈴木玄硯という医者であったが,常次郎14歳のとき死別し,以後苦労を重ね武蔵国荏原郡太子堂村(東京都世田谷区)で髪結稼業をする。文久1(1861)年41歳のとき相楽総三と出会い,志士としての活動に参加し,赤報隊一員となる。赤報隊潰滅後,太子堂村に戻り,豪農,富農を説得して500両の資金を提供させ,明治4(1871)年1月に太子堂村郷学所を設立。授業料などを無料とし貧農勉学を奨励した。<参考文献>『世田谷区教育史』資料編1

(森安彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤寛斎」の解説

斎藤寛斎 さいとう-かんさい

1821-1886 幕末-明治時代尊攘(そんじょう)運動家,教育者。
文政4年2月生まれ。上総(かずさ)(千葉県)の医者の家に生まれ,のち武蔵(むさし)荏原郡(えばらぐん)(東京都)太子堂村で髪結いとなる。文久元年相楽総三(さがら-そうぞう)とあい,赤報隊にはいる。赤報隊が処分されたのち,明治4年太子堂村郷学所を設置し,まずしい人に勉学を奨励した。明治19年3月2日死去。66歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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