太子堂村(読み)たいしどうむら

日本歴史地名大系 「太子堂村」の解説

太子堂村
たいしどうむら

[現在地名]世田谷区太子堂一―五丁目・三宿みしゆく一―二丁目・三軒茶屋さんげんぢやや一丁目・若林わかばやし二丁目

三宿村の西にあり、南は字三軒茶屋を境として馬引沢うまひきざわ村。南部を矢倉沢やぐらさわ往還北東から南西へ通り、中ほどを烏山からすやま用水が西の若林村から入り三宿村へと流れる。荏原えばら郡に属する。村名は円泉えんせん境内にある太子堂に由来する(風土記稿)。寛永八年(一六三一)旗本志村貞昌は太子堂村一石余などの知行地についての朱印を与えられた(記録御用所本古文書)。田園簿では田三〇石余・畑二七石余、うち幕府領一石・旗本山本領五四石余・旗本志村領二石余。ほかに代官伊奈半十郎納の野米五俵。これより前、文禄元年(一五九二)より一部が旗本山本氏の知行地となったが(「寛政重修諸家譜」など)、天正(一五七三―九二)末年に豊島郡せき(現練馬区)より移住し開発を行った百姓与右衛門の持高一石と野米場は徳川氏直轄領であった(風土記稿)

太子堂村
たいしどうむら

[現在地名]八尾市太子堂一―五丁目・南太子堂みなみたいしどう一―六丁目・跡部南あとべみなみの町二丁目・南亀井みなみかめい町一丁目・同四―五丁目・東太子ひがしたいし二丁目など

植松うえまつ村の西に位置し、奈良街道が通る。街道を西にとれば亀井村を経て摂津平野郷ひらのごう(現平野区)天王寺てんのうじ(現天王寺区)に達し、東にとれば植松村を経て柏原かしわら国分こくぶ(現柏原市)に行き、竜田たつた(亀瀬峠越竜田道)で大和に入る。この付近は蘇我馬子聖徳太子物部守屋との古戦場と伝えられ、太子が身を隠したという神妙椋の木のある大聖勝軍たいせいしようぐん寺、物部守屋のものと伝える墳墓のほか、守屋に関係する伝えをもつ首洗くびあらい池・鏑矢かぶらや塚・ゆみ塚などが街道沿いに並ぶ。

太子堂村
たいしどうむら

[現在地名]豊栄市太子堂

阿賀野川右岸に位置し、東は大久保おおくぼ新田。大聖寺溝口氏の下級家臣であった倉島家が主家の越後移封に従って岡方おかがたに帰農し、慶長一一年(一六〇六)弥右衛門の代に太子堂新田を開発したと伝える。弥右衛門はその功により肝煎を命ぜられた。また大久保新田を開発した半之丞は弥右衛門の次男といわれる。正保国絵図の高四五石余、新発田藩領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報