ウェーバー(読み)うぇーばー(英語表記)Ernst Heinrich Weber

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウェーバー」の意味・わかりやすい解説

ウェーバー(Max Weber)
うぇーばー
Max Weber
(1864―1920)

19世紀末から20世紀初めにかけて活躍したドイツの偉大な社会科学者。該博な知識と透徹した分析力によって、法学、政治学、経済学、社会学、宗教学、歴史学などの分野で傑出した業績を残し、また鋭い現実感覚によって当時のドイツの後れた社会と政治を批判して、その近代化に尽力した。

[濱嶋 朗]

生涯

富裕な亜麻布(あまふ)商人の家系を引く国民自由党代議士を父とし、敬虔(けいけん)なピューリタンを母として、1864年4月21日にエルフルトに生まれる。長じてハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律、経済、哲学、歴史を学んだ。卒業後、一時司法官試補として裁判所に勤務したが、学究生活に入り、1892年ベルリン大学でローマ法、商法を講じ、のちにフライブルク(1894)、ハイデルベルク(1897)各大学の国民経済学教授を歴任した。学位論文『中世商事会社史論』(1889)をはじめ、ベルリン大学教授資格論文『ローマ農業史』(1891)、フライブルク大学教授就任講演『国民国家と経済政策』(1895)などが、当時のおもな業績としてあげられる。

 初期の問題関心は、ドイツ国民国家をロシアのツァーリズムおよびイギリス、フランスの帝国主義から守り、そのブルジョア的近代化を推進することに置かれた。この立場から、彼は社会政策学会や福音(ふくいん)派社会会議に属しつつ、半封建的、保守的なユンカー(貴族的領主)支配と急進的な社会主義運動という左右両勢力に抗して、市民層を中核とする中道勢力の結集に腐心した。東エルベの農業労働者の状態に関する一連の調査(1892~1894)で資本主義の圧力によるユンカー経営の崩壊、ユンカーへの隷属からの解放を求める農業労働者の西部への移動、それにかわるポーランド人の進出と東からの脅威の増大を説き、対策を論じたほか、『国民国家と経済政策』では、国民的権力利害に奉仕すべき経済政策の課題を論じ、経済的に上昇しつつあった市民層の政治的成熟を可能とするような政治教育の必要性を力説した。

 しかし、ハイデルベルク大学に在任中より強度の神経疾患を患い、研究と教育を断念して、ヨーロッパ各地で闘病生活を送った。1902年ころからしだいに健康を取り戻し、研究活動を再開したが、教職を辞して自由な在野の研究者として学問研究に専念し、1904年以降『社会科学・社会政策雑誌』編集のかたわら、これに多くの重要な論文を寄稿。社会科学方法論の基礎を確立した『社会科学的および社会政策的認識の客観性』(1904)や、歴史の形成・変革に際して果たす理念の重要な役割を論じて唯物史観を批判した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』(1904~1905)などがそれである。また1909年にはドイツ社会学会の創立にあずかり、同年から叢書(そうしょ)『社会経済学綱要』の編集にあたり、自らもその第3巻として大著『経済と社会』(1921~1922)を書いた。これはウェーバーの学問体系の総括とみなされる。

 なお、晩年に至るまで現実政治への関心も強く、第一次世界大戦中には無謀な潜水艦作戦やプロイセンの三級選挙法に反対し、戦後にはドイツ民主党の結成に参画して、選挙戦では社会主義批判の論陣を張り、また憲法作成委員会に加わったのち、1919年ベルサイユ講和会議に専門委員として出席し、戦争責任追及の論拠を批判した。他方、1918年にはウィーン大学、翌1919年にはミュンヘン大学の教授となり、学生のために学問や政治の意義を諭す講演を行ったが、1920年6月14日、肺炎のため急逝した。

[濱嶋 朗]

学説

ウェーバーの業績は社会科学のあらゆる分野にわたるが、とくに注目されるのは、価値自由の精神と理念型操作に支えられた社会科学方法論の確立、宗教的理念やエートスの歴史形成力を視野のもとに置く唯物史観批判、近代西欧世界を貫く合理化と官僚制的支配の今日的意義の指摘などである。

(1)方法論に関しては、価値理念や価値判断を鮮明にすることによって、かえってこれを自覚的に統制し、客観的な認識に到達することができるとして、事実認識と価値判断の峻別(しゅんべつ)、価値の相対化の必要を唱え、価値自由を主張した。価値への関係づけと価値からの自由という一見矛盾した研究態度は、理念型的論理操作に媒介されて、客観的な認識を可能にする。理念型とは、ある一定の鮮明な価値観点から実在のある側面をとらえ、これを首尾一貫した一義的連関にまとめあげた思惟(しい)的構成物であり、これと実在とのずれを測定、比較し、客観的可能性判断と適合的因果帰属という操作を介して実在を思惟的に整序し、社会科学的認識の客観性を保証するという働きをする。

(2)『世界宗教の経済倫理』に関する一連の宗教社会学的研究(1915~1919)においては、経済のもつ基本的な重要性は認めつつも、その一義的規定性を否定し、むしろ行為主体(とくに社会層)の置かれた外的・内的利害状況と宗教上の理念(倫理・エートス・生活態度)とが相即したときに、この理念が人間を内側から変革し、ひいては外部秩序をも変えていくことを力説し、歴史の変革力を経済よりもむしろ理念に求める方向を鮮明にした。

(3)政治権力の比較制度的研究(支配社会学)においては、有名な支配の三類型(カリスマ的・伝統的・合法的支配)を区別し、カリスマによる伝統的秩序の変革、カリスマの日常化によるその伝統的支配への埋没、とくに近代社会の宿命的状況としての官僚制的合理化による機械的化石化とマス化を明らかにし、それが社会主義社会にもいっそう強化された形で持ち越されざるをえないことを強調した。

 以上のようなウェーバーの学説は、その後の社会科学に広範な影響を及ぼし、価値自由、理念型的把握、理解的方法に基づく学問論は、ドイツ歴史学派ばかりでなくマルクス主義批判の根拠とされた。他方でその行為論や官僚制論、宗教社会学的研究は、マルクス理論を補完する意味合いをももつ点で、今日なお積極的な意義を失っていない。

[濱嶋 朗]

『マリアンネ・ウェーバー著、大久保和郎訳『マックス・ウェーバー』Ⅰ・Ⅱ(1963、1965/新装版・1987・みすず書房)』『大塚久雄他著『マックス・ヴェーバー研究』(1965・岩波書店)』『R・ベンディクス著、折原浩訳『マックス・ウェーバー その学問の全体像』(1966・中央公論社/改題『マックス・ウェーバー――その学問の包括的一肖像』上下・1987、1988・三一書房)』『E・バウムガルテン著、生松敬三訳『マックス・ヴェーバー 人と業績』(1971・福村出版)』『濱嶋朗著『ウェーバーと社会主義』(1980・有斐閣)』


ウェーバー(Bruce Weber)
うぇーばー
Bruce Weber
(1946― )

アメリカの写真家。ペンシルベニア州グリーンズバーグ生まれ。オハイオ州デニソン大学で美術と舞台芸術を修め、1960年代にニューヨーク大学へ移り、映画製作を学ぶ。ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(学問の自由を求める研究者によって1918年にニューヨークで設立された教育機関)で写真家リゼット・モデルの授業を受けたことで写真と出会い、同じくモデルに師事した写真家ダイアン・アーバスとも親交を結ぶ。1973年、業界誌『メンズ・ウェア』Men's Wearの写真を撮りはじめたことで、プロのファッション写真家としてのキャリアをスタートさせ、ボストンのメーカーに依頼されたカタログが広告写真の年度賞を受賞したことで認知されると、カルバン・クラインラルフ・ローレンといったアメリカを代表するファッション・デザイナーからの仕事が舞い込むようになった。以降1980年1月号のイギリス版『ボーグ』誌に初めて作品が掲載されたのをはじめ、さまざまなファッション誌のグラビアを飾るとともに、愛犬を写した『ベア・ポンド』Bear Pond(1990)など、秀逸な写真集を発表しつづけている。そんな彼の人気を決定づけたのは、1980年代に開始されたカルバン・クラインの一連の広告キャンペーンだ。特に1982年水泳で鍛えられたギリシア彫刻のような素人をモデルに起用した男性下着の広告は衝撃的で、ウェーバーは一躍時代の寵児となった。

 ウェーバーは、1980年代初期から世界でもっとも多忙で、有名なファッション写真家として活躍してきた。その代表的な作品は、写真集『ブルース・ウェーバー』Bruce Weber(1983)や『ジ・アンディ・ブック』The Andy Book(1987)に見られるような若く美しい、白人アメリカ青年のヌードであり、その肉体が放つ透明感のある無垢さと内からにじみ出る官能性は、男性、女性を問わず引きつけたのである。『オ・リオ・デ・ジャネイロ』O Rio de Janeiro(1986)などこうした初期の写真集は現在も非常に人気が高い。ウェーバー自身、学生時代にモデルを経験したことが、彼の得意とするモデル・セレクションキャスティングのベースにある。

 ウェーバーの写真は、マイナー・ホワイト、ジョージ・プラット・ラインズGeorge Platt Lynes(1907―1955)らの撮った従来のメール・ヌードがもち合わせていたゲイの雰囲気を払拭(ふっしょく)し、フェミニズムやゲイが社会的に受容される時代の空気と相まって広く親しまれるようになった。また彼の成功は、クライアントの制約に縛られず写真家が自らコンセプトを打ちだすというように、ファッション写真のあり方そのものをも変化させたといえる。加えて87年にはアメリカ人アーティストのファイン・アートを集めたホイットニー美術館(ニューヨーク)のビエンナーレ展の出品作家にも選出され、アーティストの仲間入りを果たした。また、映画製作にも取り組んでおり、敬愛するジャズ・トランペッター、チェット・ベーカーChet Baker(1929―1988)を取材した記録映画『レッツ・ゲット・ロスト』Let's Get Lost(1988)は、アカデミー最優秀ドキュメンタリー賞にもノミネートされた。2001年には、若きレスラーでモデルのピーター・ジョンソンPeter Johnsonが少年から青年へと変化する過程を4年の歳月をかけて撮影した『チャプスイ』Chop Sueyが公開され、そのほか名優ロバート・ミッチャムRobert Mitchum(1917―1997)の全編インタビューによる記録映画が用意されている。

[中村浩美]

『Bruce Weber (1983, Twelvetrees Press, Los Angeles)』『O Rio de Janeiro; A Photographic Journal (1986, Knopf, New York)』『The Andy Book (1987, Doeisha, Tokyo)』『Bear Pond (1990, Bulfinch Press, New York)』『Hotel Room with a View (1992, Smithsonian Institution Press, Washington/London)』『The Chop Suey Club (1999, Arena Editions, Santa Fe)』


ウェーバー(Wilhelm Eduard Weber)
うぇーばー
Wilhelm Eduard Weber
(1804―1891)

ドイツの物理学者。電磁気学の形成期に活躍した。ウィッテンベルクの生まれ。1822年ハレ大学に入学、シュワイガーに師事し、学位論文(1826)、教師資格論文(1827)ともリード・オルガンの音響学に関してまとめた。1828年ハレ大学講師、同年、ベルリンでの学会でA・フンボルトとガウスに認められ、1831年ゲッティンゲン大学物理学教授となり、以後ガウスと共同研究を行った。ガウスのおもな関心は磁気の絶対単位(磁気の強さの長さ、時間、質量による表現)を求めることにあった。二人はゲッティンゲン磁気協会を創設し、ウェーバーはさまざまな計測装置を開発し、全国の地磁気を示す地図をつくった。また電流の絶対単位の測定にも着手した。

 1837年、ハノーバーの元首による大学の自由の侵害に反対して大学を追放されたが、1843年ライプツィヒ大学物理学教授となり、新しく開発したダイナモメーターにより、電流相互の力をアンペールよりも詳しく測定し、1846年には2本の導線中を運動する電荷の間に働く力の表現として次の式を提出した。


 彼は正・負2種類の電荷の反対向きの流れを電流だと考える。第1項はクーロン力を表すが、第2項以下に電荷間の相対速度、加速度に依存する項を導入することによって、電流の相互作用力、電磁誘導の力を求めることができる。この式がエネルギー保存則を満たすか否かをめぐって、1847年以降ヘルムホルツと長期間の論争となった。

 1849年ゲッティンゲン大学に復帰、コールラウシュRudolf Hermann Kohlrausch(1809―1858)との共同で前記式の定数c(電磁単位と静電単位の比)の決定、反磁性の研究などに着手した。結果的にはcは光の速度に比例する量であることがわかったが、当時、特別に注目はされなかった。また反磁性の原因については、個々の分子の周りの電流によって物質の磁性が決定されるというアンペールの分子電流のモデルを用いた。ゲッティンゲン時代の後半は、電気伝導や熱伝導などのさまざまな物性を電気粒子の運動によって理解しようとし、19世紀後半の電子論の先駆けとなった。

 ウェーバーの電磁気学はマクスウェルの場の理論に結局は駆逐されたが、電磁気学形成期における測定装置の向上と客観的な単位の設定に果たした役割は大きい。

[高山 進]


ウェーバー(Alfred Weber)
うぇーばー
Alfred Weber
(1868―1958)

ドイツの経済学者、社会学者。マックス・ウェーバーの弟。エルフルトに生まれる。ボン、ベルリン、チュービンゲン大学で法学、経済学を修め、ベルリン大学講師(1899)、プラハのドイツ大学教授(1904~1907)、ハイデルベルク大学教授(1907~1933)を歴任。第二次世界大戦中ナチスに追われたが、戦後ハイデルベルク大学名誉教授として復活。初め産業立地論を専攻したが、のちに社会学研究に転じた。ジンメルらの形式社会学を批判し、歴史的世界を社会過程、文明過程、文化運動の3層に区分し、それらの多様な相互連関に即して社会の布置構成を歴史主義的にとらえようとする文化社会学あるいは歴史社会学を提唱した。晩年はこうした立場からさらにヨーロッパ文明の黄昏(たそがれ)を論じ、生そのものを問う歴史哲学への傾斜を深めた。主著に『国家社会学および文化社会学への意見』Ideen zur Staats- und Kultursoziologie(1927)、『文化史としての文化社会学』Kulturgeschichte als Kultursoziologie(1935)、『歴史社会学および文化社会学の原理』Prinzipien der Geschichts- und Kultursoziologie(1951)などがある。

原直樹]


ウェーバー(Ernst Heinrich Weber)
うぇーばー
Ernst Heinrich Weber
(1795―1878)

ドイツの解剖学者、生理学者。ウィッテンベルクの生まれ。同地の大学で医学を修め、1815年卒業。1818年ライプツィヒ大学教授となり、初め解剖学を、のちに生理学を講じた。

 末弟エドゥアルト・フリードリッヒ・ウィルヘルム・ウェーバーとの物理学的方法に基づく共同研究は有名で、脈拍を支配する神経刺激の実験的研究の先駆となった。とくに関心を注いだのは皮膚感覚で、1846年に発表した『触覚と一般感覚』は実験心理学と生理学の基礎をなしたものとして知られ、刺激の強さと識別域との関係(ウェーバーの法則)を説いた。物理学者ウィルヘルム・エドゥアルト・ウェーバーは次弟である。

[大鳥蘭三郎]


ウェーバー(Eduard Friedrich Wilhelm Weber)
うぇーばー
Eduard Friedrich Wilhelm Weber
(1806―1871)

ドイツの解剖学者、生理学者。ウィッテンベルクに生まれ、ハレ大学で医学を修め、1829年卒業。一時開業したが、1836年ライプツィヒ大学解剖執刀者となり、1847年同大学助教授となった。長兄エルンスト・ハインリヒ・ウェーバーとともに研究を行い、1825年に「波動説」を発表して脈波の速度を測定し、ビシャの「脈拍はどの動脈中でも同時である」との説に反論した。1845年には迷走神経に心臓の運動を抑制する作用があることを発見した。次兄ウィルヘルム・エドゥアルト・ウェーバーは電磁気学の開拓者である。

[大鳥蘭三郎 2018年6月19日]


ウェーバー(磁束の単位)
うぇーばー
weber

国際単位系(SI)の磁束の単位。記号はWbである。「1回巻きの閉回路と鎖交する磁束が、一様に減少して1秒後に消滅するときに、その閉回路に1ボルトの起電力を生じさせる磁束」と定義づけられている。名称はドイツの物理学者W・E・ウェーバーの業績にちなんでいる。この単位は、1895年(明治28)にイギリスで、1931年(昭和6)に国際電気標準会議で、そして1948年に国際度量衡総会で承認され、1960年に国際単位系に固有の名称と記号をもつ単位として組み入れられた。

[小泉袈裟勝・今井秀孝]


ウエーバー(Ernst Heinrich Weber)
うえーばー

ウェーバー


ウエーバー(Wilhelm Eduard Weber)
うえーばー

ウェーバー


ウエーバー(Eduard Friedrich Wilhelm Weber)
うえーばー

ウェーバー


ウエーバー(Max Weber)
うえーばー

ウェーバー


ウエーバー(Alfred Weber)
うえーばー

ウェーバー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウェーバー」の意味・わかりやすい解説

ウェーバー
Weber, Max

[生]1864.4.21. エルフルト
[没]1920.6.14. ミュンヘン
ドイツの社会学者,経済学者。ハイデルベルク大学,ベルリン大学で学び,ベルリン大学員外教授を経てフライブルク,ハイデルベルク,ミュンヘンの各大学教授を歴任。研究領域はきわめて多岐にわたり,しかもその各領域において傑出した不滅の業績を残している。彼の研究のライトモチーフは,世界史上独自の文化意義をもつ近代ヨーロッパ合理主義の普遍的意義を発生史的に明らかにし,それによって現実のもつ文化意義を批判的に解き明かすことであった。しかも見逃せないのは,この遠大な問題提出の拠点が,なによりもビスマルク体制崩壊期のドイツのきびしい政治情勢のなかに据えられていたことである。著名な彼の方法論研究もまた,「ドイツ国民権力国家」構築,ドイツ資本主義の市民化=国民化という利害関心と深くからまっている。『経済と社会』 Wirtschaft und Gesellschaft (1921~22) ,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus (04~05) ,『一般社会経済史要論』 Abriß der unversalen Sozial und Wirtschaftsgeschichte (23) をはじめ膨大な著書があり,今日にもなお非常な影響を及ぼしている。また彼自身多くの論文を発表した『社会科学および社会政策雑誌』 Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集者としても著名。

ウェーバー
Weber, Wilhelm Eduard

[生]1804.10.24. ウィッテンベルク
[没]1891.6.24. ゲッティンゲン
ドイツの物理学者。兄のエルンスト,弟のエドゥアルドはそれぞれすぐれた解剖学者,生理学者。ハレ大学卒業後,同大学助教授 (1828) を経て,ゲッティンゲン大学教授 (31) 。数学者 C.F.ガウスとともに地磁気の研究を行う。 1837年他の6人の大学教授とともに国王に抗議したことにより職を追われる。 43年にライプチヒ大学教授。のちゲッティンゲン大学教授に復帰 (48) ,天文台台長兼任。 46年運動荷電粒子に対する電気力学を展開し,電流間の相互作用を求めた。 52年分子電流の仮説により反磁性を説明。 56年 F.コールラウシュとともに電流の静電単位と電磁単位の比がほぼ光速度に等しいことを実証した。磁束の実用単位「ウェーバ」は彼の名にちなんでいる。

ウェーバー
Weber, Albrecht Friedrich

[生]1825.2.17. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1901.11.30. ベルリン
ドイツのインド学者。特にベーダ学にすぐれ,サンスクリット文献学研究に精密な方法論を開発した。『白ヤジュル・ベーダ』 The White Yajurveda in three partsの校訂版および翻訳 (1852~59) ,『黒ヤジュル・ベーダ』 Die Taittirīya-Saṃhitāの出版 (71~72) を行なった。またベルリン王室図書館のサンスクリット文献目録を編集 (53~92) 。その他,ジャイナ教の研究などにもすぐれた業績を残し,門下にヤコービ,ロイマンら多くの俊秀を出した。主著『インド研究』 Indische Studien (18巻,50~98) ,『インド文学史』 The History of Indian Literatureなど多数。

ウェーバー
Weber, Alfred

[生]1868.7.30. エルフルト
[没]1958.5.2. ハイデルベルク
ドイツの経済学者,社会学者。ベルリン大学で法学,経済学を学び,同大学講師,プラハ大学教授 (1904) を経て 1907年ハイデルベルク大学教授。歴史学派の影響のもとに経済地理学,特に産業立地論を研究,のちに文化社会学を創唱した。彼は文化発展と文明過程とを区別し,歴史哲学や文明史の考察で独特の見解を提唱したがナチス治下ではそれは受入れられず強制停職処分 (33~45) にあった。主著『産業立地論』 Industrielle Standortlehre (19) ,『文化社会学としての文化史』 Kulturgeschichte als Kultursoziologie (35) 。

ウェーバー
Weber, Otto

[生]1902.6.4. ケルン
[没]1966
ドイツの改革派神学者。ボン,テュービンゲンの各大学卒業後,ゲッティンゲン大学教授 (1934) 。その研究領域は,聖書神学,組織神学にわたる。 K.バルトの強い影響を受け,その膨大な『教会教義学』の紹介的報告書を出版。またカルバンの『キリスト教綱要』を独訳した。著書は『カール・バルト教会教義学概説』 Karl Barths kirchliche Dogmatik (50) のほか,"Gottesdienst und evangelische Verkündigung" (33) ,"Bibelkunde des AT" (35) ,"Versammelte Gemeinde" (49) ,"Grundlagen der Dogmatik" (I.55,II.62) など。

ウェーバー
Weber, Carl Maria Friedrich Ernst von

[生]1786.11.18. オイチン
[没]1826.6.5. ロンドン
ドイツロマン派の扉を開いた作曲家。モーツァルトと義理の従兄弟。幼少の頃より舞台監督,指揮者兼劇団マネージャーであった父に従って各地をめぐり,1798年から正式に作曲を学ぶ。 1804年ブレスラウ,13年プラハ,17年ドレスデンで劇場指揮者をつとめるかたわら作曲をし,またピアニストとして名声を得た。ドレスデンでは,民話をもとにロマン的な管弦楽の色彩を駆使した不滅のオペラ『魔弾の射手』を完成,21年ベルリンでの初演以来大成功を収め,その後病におかされながら『オイリアンテ』 (1823) ,『オベロン』 (26) を上演。その他ピアノ曲,すぐれたホルンやクラリネット用器楽曲など多数を作曲した。

ウェーバー
Weber, Eduardo Friedrich Wilhelm

[生]1806.3.10. ウィッテンベルク
[没]1871.5.18. ライプチヒ
ドイツの生理学者。ハレ大学に学び,卒業後しばらく開業したのち,ライプチヒ大学解剖学教授。神経系の生理に関する研究で有名。 1825年,兄のエルンストとともに脈拍波動の速度を決定。 45年,脳の一部に電気的刺激を加えると心臓の動きが停止することを発見。これは,神経系の作用によって自律的運動が阻害される現象の観察として最初のものであった。兄の物理学者ウィルヘルムと共同で運動と運動力に関する研究をし,共著がある。

ウェーバー
Weber, Ernst Heinrich

[生]1795.6.24. ウィッテンベルク
[没]1878.1.26. ライプチヒ
ドイツの解剖学者,生理学者。ライプチヒ大学教授。触定位,刺激間の丁度可知差異,ウェーバーの法則に関する知見は,精神物理学の基盤となった。主著"Der Tastsinn und das Gemeingefühl" (1851) 。 (→弁別 )

ウェーバー
Weber, Max

[生]1881.4.18. ビャウィストク
[没]1961.10.4. ニューヨーク
アメリカの画家,版画家。 1891年両親とともにアメリカに渡り,98年から2年間ニューヨークのプラット・インスティテュートに学ぶ。 1905年パリでマチスの指導を受ける。フォービスムの影響を受けた絵を描き,のち立体派の手法も取入れた。教育家としても知られる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報