料金をとって男女の髪を結い上げる職業。男髪を結う店を床屋(とこや)あるいは髪結い床、浮世床(うきよどこ)ともいう。江戸時代初期には、橋のたもとに店を開き、のれんや障子看板を置き、それにイセエビの模様を色彩で描いた。そしてその端に「のし」や碇(いかり)の図を入れたり、江戸末期には、障子看板には真上からみた本多髷(まげ)の形を描くのが普通であった。
中世以前には髪床というものもなく、髪結い職人もいなかった。冠下髻(かんむりしたのもとどり)でも、一つ髻でも、自分の家で自分で結い上げた。ところが戦乱が続くようになって、総髪の束ね髪にかわり月代(さかやき)の部分の毛を毛抜きで抜くようになった。当時は、一銭剃(いっせんぞり)とか一銭職といって、多くは僧侶(そうりょ)の副業であった。この図柄は『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』(上杉神社蔵)にみられるので、天正(てんしょう)(1573~92)以前の様相が知られる。剃刀(かみそり)を用いて月代を剃(そ)るようになるのは天正年代に入ってからである。髪結い職人が、株仲間をつくって職業化するのは江戸時代に入ってからである。一銭剃あるいは一銭職と称したのは、当時の手間賃が銭一文であったことを意味する。
髪結い職には居職(いじょく)と出職(でしょく)とがあり、居職は橋のたもとや辻(つじ)の角に店を構えた。その職人の多くは岡引(おかっぴ)きの下で働く下引(したっぴ)きで、橋の往来人を見張り、橋を掃除し、奉行所近くに火災が起こると、欠付(かけつけ)(駆付)鑑札を持って非常線を突破して、奉行所の指図に従ったり、また、罪人の髪、髭(ひげ)を剃ることも義務づけられていた。道具には毛受板(けうけいた)、鬢盥(びんだらい)(上方(かみがた)では台箱)、梳櫛(すきぐし)、唐櫛(からぐし)、刷毛(はけ)こき、鬢かきなど各種の櫛、元結(もとゆい)、髷棒(まげぼう)などがあり、職人は「かるさん」という袴(はかま)をはくのが特色であった。出職の者は鬢盥に各種の櫛、髷棒を入れて持ち歩いて仕事をした。明治の文明開化とともに西洋床(どこ)ができ、髪形も散切(ざんぎり)になるにつれて、古来の髪結いは、新しい西洋式の整髪に転じていった。
一方、女性の場合は、江戸後期(18世紀後半)まで、髪を結うことは女の身だしなみとされ、主婦は飯が炊き上がるまでの時間を利用して化粧を済ませるものであり、母や姉妹たちは互いに髪を結い合った。その後、歌舞伎(かぶき)役者の床山が、副業として芸者の髪を結い始め、女髪結いができたが、幕府の禁令にあい中絶した。明治以降は正規の職業と認められ、自宅営業や得意先を回る「お師匠(しょ)さん」とよばれるものもできた。しかし大正から昭和にかけて、日本髪の衰退は著しく、髪結いは美容院に転じた。
[遠藤 武]
『石井良助編『徳川禁令考 第5巻』(1959・創文社)』
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