日本歴史地名大系 「新座郡」の解説
新座郡
にいくらぐん
天平宝字二年(七五八)に新設された
〔古代〕
「続日本紀」天平宝字二年八月二四日条に「帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是、始置新羅郡焉」とあり、新羅人七四人を移住させて新羅郡が建郡された。僧尼が多くみられるのが特徴であるが、今のところ有力な古代寺院は確認されていない。二年後の同四年四月二八日条にも「置帰化新羅一百卅一人於武蔵国」とあり、これらの新羅人も当郡へ移されたと思われる。この時期の新羅郡の設置は新羅との緊張関係によるものであった。天平年間(七二九―七四九)から新羅との関係は不調であったが、天平勝宝四年(七五二)新羅王子金泰廉ら七〇〇余名もの大使節団が来日し、日本側は危機感をいだいた。翌年正月には唐の玄宗皇帝のもとでの元日朝賀において、日本と新羅の席次争いが生じた。このようなことから藤原仲麻呂政権は新羅征討を計画し、天平宝字三年から軍船の建造をはじめ、大宰府に諸準備を命令した。このとき日本の戸籍に付されていた新羅人で帰国を願う者の送還も行っている(同書)。このような政治情勢を背景として新羅郡が設置されたと考えられる。また当時武蔵守には
武蔵国側でも新羅郡に隣接する入間郡では物部直広成、足立郡では丈部直不破麻呂などの在地の豪族が活躍しており、中央とのつながりをもちながら地元の開発を進める動きがあった。
新座郡
にいくらぐん
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報