富山県中央西部の市。2005年11月新湊(しんみなと)市と大島(おおしま),小杉(こすぎ),大門(だいもん)の3町および下(しも)村が合体して成立した。人口9万3588(2010)。
射水市北西部の旧町。旧射水郡所属。1969年町制。人口9259(2000)。富山平野の西端にあり,庄川下流東岸の低地を占める。水稲単作地帯の純農村であったが,昭和初期から工場誘致を行い,呉羽紡績(現,東洋紡),電気冶金(現,日本電工)などの大企業の進出をみた。新湊の南隣で,富山と高岡の間に位置し,近年は国道8号線沿いに工場や倉庫の進出が著しく,1978年には工業団地が造成された。高岡市や富山市への通勤者も増え,1970年ころから人口が増加し,70年から85年までの5年ごとの人口増加率は10%をこえた。鳥取の八幡宮境内に《古事記》にちなむ〈鳥取の里〉の石碑がある。JR北陸本線が通じる。
射水市南東部の旧町。旧射水郡所属。人口3万2356(2000)。富山平野の西部にあり,町域の南半部は丘陵である。中心集落の小杉は江戸時代,北陸街道の宿場町で,2・5・8の九斎市が開かれていた。明治以降は射水郡の行政・商業の中心となっている。水稲単作地帯で,1963年から国の水利事業により湿田の乾田化が進んだが,兼業化が著しい。富山新港臨海工業地域のベッドタウンとして南部の丘陵地に太閤山ニュータウンが建設され,県民公園太閣山ランドも開設された。北陸自動車道小杉インターチェンジが設けられ,付近には富山県立大学,県立技術短大,流通センターなどがある。JR北陸本線,国道8号線が通じる。
射水市北東部の旧村。旧射水郡所属。人口2018(2000)。富山平野の西部にあり,村域の大半は標高1m未満の低地である。中心集落の加茂は1662年(寛文2)加賀藩により宿駅が設置され,北陸道の宿場町としてにぎわったが,明治以降は停滞した。水田単作地域で米作が中心であるが,近年兼業化が著しく,富山市と旧新湊市への通勤者も多い。村内の加茂神社には〈やんさんま〉(流鏑馬(やぶさめ)),牛乗,稚児舞などの神事が伝わる。
執筆者:千葉 立也
射水市北端,庄川の最下流域右岸にある旧市。富山湾に臨み,市街地は砂丘上にあるが,市域全体は低湿である。1951年高岡市より分離して市制。人口3万7287(2000)。古くは奈呉,放生津(ほうじょうづ)と呼ばれ,鎌倉時代の守護所,加賀藩時代の蔵宿がおかれるなど,この地方の中心であった。江戸時代には北前船をはじめ回漕業が盛んであった。また漁業も盛んで,台網漁(マグロ,ブリ)が発達し,富山湾内有数の定置網漁業の根拠地となった。今は沿岸漁業以外に夏季には遠洋に出かける。大正初期に日本鋼管富山電気製鉄所,昭和10年代に日本高周波鋼業が立地し,フェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼を製造した。1961年市域中央部の放生津潟を利用して掘込み式の富山新港をつくり,周辺に工業用地を造成して県の重化学工業化の拠点とする大事業が始められた。港は68年に開港した。
執筆者:藤森 勉
射水市南西部の旧町。旧射水郡所属。人口1万2583(2000)。富山平野西部,庄川東岸に位置する。中心集落の大門は1653年(承応2)に町立てされ,北陸道の宿場町として発達した。主産業は米作を主とする農業で,近年養豚やナシ,マスカットなどの生産がふえている。庄川扇状地末端の湧水帯には養鱒場がある。また南部の射水丘陵からとれる粘土を原料に瓦の製造が行われる。庄川東岸の段丘には縄文~古墳時代の複合遺跡串田新遺跡(史)がある。JR北陸本線が通じる。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
富山県北西部にある市。2005年(平成17)新湊市(しんみなとし)、射水郡小杉町(こすぎまち)、大門町(だいもんまち)、大島町(おおしままち)、下村(しもむら)が合併して成立。市名は射水郡の郡名による。北は富山湾に臨み、市の西境を北流する庄川(しょうがわ)が富山湾に注ぐ。市域は射水平野と、その周縁の射水丘陵に展開。市の北西部、庄川の河口砂州上に新湊市街が、中央部東寄りの太閤山(たいこうやま)の周囲に小杉市街が広がる。北から順に、国道415号、8号、あいの風とやま鉄道(旧、JR北陸本線)、北陸自動車道が並行しながら市域を横断し、北陸自動車道の小杉インターチェンジがある。これらと交差しながら中央部を国道472号が縦断、岐阜県高山市に向かう。射水市街と高岡(たかおか)市街を結んで、第三セクターの万葉線(まんようせん)が走る。
旧石器時代の遺跡が射水丘陵上にあり、縄文―古墳各時代の遺跡は、平野部、丘陵部に広く分布。縄文時代の串田新(くしたしん)遺跡、弥生時代から飛鳥時代の小杉丸山(こすぎまるやま)遺跡はともに国指定史跡。放生津潟(ほうじょうづがた)(現在の富山新港一帯にあった入江)は『万葉集』に「奈呉の江」(奈呉の海)とみえ、大伴家持らが遊覧した名勝であった。放生津は、放生津潟から富山湾に流れ出る内(うち)川に沿って形成された湊町で、鎌倉時代、越中国守護所が置かれる。支配拠点となった放生津からは若狭への海路なども開かれ、港湾都市として発展。南北朝期の内乱で放生津は焼失したが、室町期に守護代神保氏の下で再興された。中世、市域には京都下鴨社領の倉垣(くらがき)荘、山城石清水八幡(いわしみずはちまん)宮領の金山(かなやま)保などがあり、それぞれ域内に末社が勧請された。倉垣荘の総社とされる加茂(かも)の加茂神社は1066年(治暦2)の勧請といい、9月4日の例祭に行われる稚児舞(ちごまい)は国指定重要無形民俗文化財。放生津八幡宮の秋の祭礼には曳山13台が出て、市中を練り歩く。1585年(天正13)加賀前田氏の支配下に入り、江戸時代は加賀藩領であった。加賀藩は北陸街道を整備、下村、小杉新町、大門新町は宿駅に指定された。大門新町は庄川舟運の拠点としてもにぎわいをみせ、放生津は引き続き廻船業と漁業の拠点としてにぎわった。主産業は農業、漁業だったが、大正期から日本鋼管富山製造所(現、JFEマテリアル)、日本高周波鋼業富山工場(現、富山製造所)などが進出し、高岡工業地域の一環を形成した。1968年(昭和43)に放生津潟に富山新港が開港し、周辺には北陸電力富山新港火力発電所、三協アルミなどの工場が立地。丘陵地にも小杉流通業務団地、太閤山ニュータウンなどが建設された。富山県立大学、県環境科学センターなどの施設がある。江戸時代後期の和算家石黒信由(のぶよし)(1760―1836)は当地の出身。信由関係資料のうち、自筆稿本、絵図類など3765点(新湊博物館寄託)は国指定重要文化財。面積109.44平方キロメートル、人口9万0742(2020)。
[編集部]
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