新田目村
あらためむら
[現在地名]余目町新田目
本小野方村の東、京田川北岸にあり、前田野目村から南下する道と吉田村―八色木村(現藤島町)間の道が交差する所に集落がある。荒田目村とも記される。北楯大堰の幹川狩川新田堰から分岐する六ヶ村堰(南堰)に中島・吉田両村と共同で三ヶ村堰を開削、さらに自村までの水路を設けて元和八年(一六二二)に開村(十六合史)。入植者は最上川対岸から移住し、草分百姓を今川藤左衛門と伝える(余目町史)。寛永元年庄内高辻帳に村名がみえ、高七七石余、うち六一石余が亥ノ興。寛永一四年(一六三七)の庄内村々高辻(酒井家文書)では高八八石余。正保郷帳では新田村で、田方一二九石余・畑方一〇石余、水損と記す。
新田目村
につためむら
[現在地名]合川町新田目
北流する阿仁川下流域左岸、いわゆる阿仁の入口付近に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「六拾弐石九斗弐升六合 新田目村 上杉宮村」とみえる。中世後期を通じ嘉成氏領であったが、天正初め頃安東(秋田)氏に包摂される。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では二五三石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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