北秋田郡(読み)きたあきたぐん

日本歴史地名大系 「北秋田郡」の解説

北秋田郡
きたあきたぐん

面積:一九一八・〇九平方キロ
上小阿仁かみこあに村・阿仁あに町・森吉もりよし町・比内ひない町・合川あいかわ町・鷹巣たかのす町・田代たしろ

県北部中央。西流する米代川中流域と、南からそれに流れ込む阿仁川小阿仁川・小猿部おさるべ川および南流する早口はやくち川・岩瀬いわせ川各流域の沖積地からなり、周囲にはそれらをかこむ第三紀層の丘陵が連なる。米代川を挟み小集落の密集する大館盆地鷹巣盆地があるが、郡域のほぼ八〇パーセントは山地で古くから鉱山・森林資源に恵まれている。

北秋田郡は明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法により、従来の秋田郡を二分した結果できた。秋田郡は古代においてはその範囲、とくに北限は定まることなく、国家の支配領域が北進するにつれ北へ延びた。平安末期から織豊期にかけ、現在の大館市と北秋田郡を比内(肥内)郡と称した。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月三日条に「此間、相恃数代郎従河田次郎、到于肥内郡贄柵之処」とあり、秋田郡に含まれたのは織豊末期、安東(秋田)実季が当地方を包摂してからである。成立当時の北秋田郡は中世の比内郡とほぼ同じ領域を占める。

〔原始〕

先土器時代の遺跡はまだ発見されていない。縄文時代の遺跡は米代川・阿仁川流域、および大館・鷹巣両盆地周辺の段丘上に多数分布する。遺跡数はおよそ一五〇を数え、ほとんどが縄文中期以降に属す。注口土器・土偶・岩版などを出土した縄文晩期の藤株ふじかぶ遺跡、同じく現合川町摩当沢まとうざわの遺跡、そのほか土師器・須恵器片を出土する鷹巣・綴子つづれこ糠沢ぬかざわ坊沢深関ぼうざわふかせきなどの遺跡がある。

〔古代〕

律令国家の東北政策推進機関は能代営のしろのたむろが最北で、北秋田郡内には設置されていない。九世紀末の元慶の乱に際し、「三代実録」には秋田城下の賊地として「上津野・火内・榲淵・野代・河北」など一二ヵ村をあげ、火内ひない榲淵すぎぶちの二ヵ村は北秋田郡内の村とされる。これから考えると奈良―平安前期を通じ、当地方は古代国家の支配下に整備されていなかった。しかし平安時代後期の建築物に編年されている現鷹巣町の胡桃館くるみだて遺跡は、三〇センチ四方の角材、厚さ五センチ、幅二〇センチの板材をそれぞれ用い、建築様式に観音開扉や板校倉を取り入れ、手斧・大鋸を用いた跡がある。この遺跡の性格は不明であるが、有力な在地領主が成長していたことは疑いなく、蝦夷社会の時点においても内国化された地域と本質的には違わぬ秩序をもっていた。現大館市二井田にいだ贄の里にえのさとに比定される肥内郡贄柵にえのさく(吾妻鏡)は、平泉ひらいずみ藤原氏譜代の郎従河田次郎が本拠を置いていた所で、鹿角かづの・比内・津軽を結び、比内地方を支配する適地である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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