日本歴史地名大系 「北秋田郡」の解説
北秋田郡
きたあきたぐん
県北部中央。西流する米代川中流域と、南からそれに流れ込む阿仁川・小阿仁川・
北秋田郡は明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法により、従来の秋田郡を二分した結果できた。秋田郡は古代においてはその範囲、とくに北限は定まることなく、国家の支配領域が北進するにつれ北へ延びた。平安末期から織豊期にかけ、現在の大館市と北秋田郡を比内(肥内)郡と称した。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月三日条に「此間、相恃数代郎従河田次郎、到于肥内郡贄柵之処」とあり、秋田郡に含まれたのは織豊末期、安東(秋田)実季が当地方を包摂してからである。成立当時の北秋田郡は中世の比内郡とほぼ同じ領域を占める。
〔原始〕
先土器時代の遺跡はまだ発見されていない。縄文時代の遺跡は米代川・阿仁川流域、および大館・鷹巣両盆地周辺の段丘上に多数分布する。遺跡数はおよそ一五〇を数え、ほとんどが縄文中期以降に属す。注口土器・土偶・岩版などを出土した縄文晩期の
〔古代〕
律令国家の東北政策推進機関は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報