新羽村(読み)につぱむら

日本歴史地名大系 「新羽村」の解説

新羽村
につぱむら

[現在地名]港北区新羽町・新横浜しんよこはま三丁目

都筑つづき郡に属し、東は鶴見つるみ川を隔てて橘樹たちばな太尾ふとお村、南は同郡小机こづくえ村、西は川向かわむこう村・大熊おおくま(現緑区)西北勝田かちだ村、北は吉田よしだ村に接する。鶴見川には太尾村との組合持ちの江戸往来の土橋があった。鶴見川から小名山崎やまざきで三条の用水を引く。

「風土記稿」は正応三年(一二九〇)の地頭肥後三郎実村(定村)遺領争論文書を伝え、争点となった遺領として「新羽郷」がみえる。文明一八年(一四八六)聖護院道興の「廻国雑記」に「次の日浅草を立て、新羽といへる所におもむき侍るとて」とあり、途中名所などを訪ねながらこまはしに宿を借りたあと、「新羽を立てかまくらにいたる道すがら」とあり、その夜は「かたびらの宿」(現保土ヶ谷区)に泊まった。

新羽村
につぱむら

[現在地名]上野村新羽

村央を野栗のぐり沢が北流し、北境を蛇行しつつ東流する神流かんな川に合する。東は神原かがはら(現中里村)、南は野栗沢のぐりさわ村、北と西は勝山かつやま村と接し、北部を十石じつこく街道が東西に抜ける。枝村の野栗は泉龍せんりゆう寺蔵の永徳元年(一三八一)から二年にかけて書写された大般若経巻一一の奥書に「金阿弥仏 野栗」とある。また乃久里のぐり(野栗)神社の永正二年(一五〇五)の鐘銘に「武蔵国秩父郡□□□郷末野栗村」とあるように、上武国境の村として時には武蔵国とされ、元禄一五年(一七〇二)八月の国境論争の裁許が下るまで他の神流川右岸の村々同様に不明確であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報