デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日下部子麻呂」の解説 日下部子麻呂 くさかべの-こまろ ?-773 奈良時代の官吏。筑後介(ちくごのすけ)在任中の天平(てんぴょう)10年(738)献上の鷹をはこぶ部領使(ことりづかい)として大宰府(だざいふ)から京におもむく。左兵衛督(さひょうえのかみ)をへて,山背守(やましろのかみ)となる。藤原仲麻呂の乱では,佐伯伊多智(さえきの-いたち)らと近江(おうみ)の勢多(瀬田)(せた)橋をやきはらい,仲麻呂の東国への退路を遮断,乱後,功田(こうでん)20町をうけた。播磨(はりまの)守。宝亀(ほうき)4年5月17日死去。名は古麻呂とも。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「日下部子麻呂」の解説 日下部子麻呂 没年:宝亀4.5.17(773.6.11) 生年:生年不詳 奈良時代の官人。天平勝宝7(755)年8月従五位下。山背守,播磨守などを歴任。藤原仲麻呂の乱(764)のとき,将軍として参加し,勢多橋(大津市)を焼き仲麻呂を近江(滋賀県)に敗走させた。その功により勲2等,功田20町を与えられた。極位は従四位上。 (寺崎保広) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by