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藤原緒嗣 ふじわらのおつぐ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原緒嗣
ふじわらのおつぐ

[生]宝亀5(774).奈良
[没]承和10(843).7.23. 京都
平安時代初期の廷臣。藤原式家百川の子。延暦7 (788) 年殿上 (てんじょう) で加冠,同 21年参議。同 24年 12月参議菅野真道と天下の徳政について論じ,軍事と造営で百姓が苦しんでいることを上奏すると,桓武天皇は緒嗣の議を入れた。また淳和天皇大嘗会に冗費節約を奏し,みずからその任にあたった。中納言大納言を経て,天長2 (825) 年右大臣,同9年左大臣,『日本後紀』の編者の一人。

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百科事典マイペディアの解説

藤原緒嗣【ふじわらのおつぐ】

平安初期の高官。左大臣。式家百川(ももかわ)の子。805年造都は天下の苦しむところと上奏して平安京造営を中止させるなど,桓武朝から嵯峨朝にかけて活躍。また《新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)》《日本後紀(こうき)》を編修。
→関連項目平安遷都

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原緒嗣 ふじわらの-おつぐ

774-843 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
宝亀(ほうき)5年生まれ。式家藤原百川(ももかわ)の長男。父の功により桓武(かんむ)朝で栄進し,延暦(えんりゃく)21年(802)参議。24年菅野真道(すがのの-まみち)と天下の徳政を論じ,平安京造営・征夷の2大事業中止を主張した。天長2年(825)右大臣,9年左大臣にすすみ,正二位にいたる。「日本後紀」の編修主宰者。承和(じょうわ)10年7月23日死去。70歳。贈従一位。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原緒嗣

没年:承和10.7.23(843.8.22)
生年:宝亀5(774)
平安前期の公卿。式家百川と伊勢大津の娘の子。山本大臣とも。父が擁立した桓武天皇の恩寵を受け,異例の昇進を重ねた。延暦7(788)年の元服に際して天皇自ら加冠し,同21年,29歳の若さで参議に抜擢された。参議任命は神泉苑での宴席で行われ,その際天皇は「緒嗣の父(百川)なかりせば,予,あに帝位を践むを得んや」といって涙を流している。同24年12月,天皇の求めにより,その面前で菅野道真と「よい政治とは何か」について論争(徳政相論)し,平安京の造営と蝦夷の経略とが民を苦しめる根源であるとして,この両事業の停止を強く主張,これが桓武天皇の認めるところとなって造宮職は廃止された。これは政術に暁達し,国の利害にかかわる重大事を知れば必ず奏上したというほどの直言居士だった緒嗣が,もっとも真価を発揮した場面といってよいが,その強直で偏執的な性格が嫌われ,仲間から孤立する原因ともなった。大同3(808)年には皮肉にも民苦のひとつと主張した蝦夷経略にかかわる陸奥出羽按察使に任命され,これを固辞したが,結局赴任している。桓武天皇没後はしだいにうとまれ,病弱なこともあって年下の藤原冬嗣に越階されるが,冬嗣没後は政界の首班となり,天長9(832)年左大臣に任じられている。しかし前半生に比べて目立った活躍はない。『新撰姓氏録』『日本後紀』の編纂に関与。「当時第一の富人」といわれ,法輪寺(京都市東山区の泉涌寺)やその北の今熊野観音寺は緒嗣の造営と伝えられる。<参考文献>阿部猛『平安前期政治史の研究』

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのおつぐ【藤原緒嗣】

774‐843(宝亀5‐承和10)
平安初期の官人。藤原百川(ももかわ)の子。父百川が桓武天皇擁立の中心人物であったことからその信任があつく,内舎人(うどねり)として出身し,中衛少将,右衛士督など主として武官を歴任,802年(延暦21)従四位下で参議となった。ときに29歳で当時では史上最年少の参議である。805年12月に殿上で69歳の参議菅野真道(すがののまみち)と天下の徳政を論じ,蝦夷への軍事行動と平安京の造営の中止を主張し,桓武天皇がこれを実行したことは有名である。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原緒嗣
ふじわらのおつぐ
(774―843)

平安前期の官僚。百川(ももかわ)の長子で、母は伊勢大津(いせのおおつ)の女(むすめ)。父が桓武(かんむ)天皇擁立の立役者であったため、天皇の信任が厚く、17歳で正(しょう)五位上内舎人(うどねり)となり、のち侍従や諸衛府(えふ)の官人を経て、802年(延暦21)29歳のとき、天皇の特別な計らいで前例のない若い参議となった。805年には天下の徳政を論じて軍事(いわゆる蝦夷(えぞ)征討)と造作(平安宮造営)の中止を進言した。続く平城(へいぜい)朝では観察使として山陽道、畿内(きない)、東山道に赴き、民衆の実情を踏まえた意見を奏上した。嵯峨(さが)朝に入ると、蔵人頭(くろうどのとう)を経て10年遅れて参議となった藤原冬嗣(ふゆつぐ)(1歳年少)が天皇の信任を得、緒嗣は政治的に目だった行動が少なくなる。しかし821年(弘仁12)に大納言(だいなごん)、825年(天長2)には右大臣となり、冬嗣の死(826)以後は太政(だいじょう)官の首座(一上)となり、832年には左大臣となった。晩年は病弱で、政治的にみるべきものは少ないが、編集した『日本後紀(こうき)』の人物評は異例で、緒嗣の影響とされている。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の編集にも参画した。[佐藤宗諄]

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世界大百科事典内の藤原緒嗣の言及

【日本後紀】より

…792年(延暦11)から833年(天長10)まで,桓武,平城,嵯峨,淳和の4天皇,43年間のことを記す。仁明天皇の840年(承和7),藤原緒嗣(おつぐ)らの手で完成。応仁・文明の戦乱で散逸し,10巻のみ現存し,他の30巻については,《日本紀略》《類聚国史》等により部分的にしか復元しえない。…

※「藤原緒嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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