中国、唐代の詩人で、「唐宋(そう)八大家」の一人に数えられる「古文」の名文家。字(あざな)は子厚(しこう)。河東(山西省永済県)の人。中唐の人で、韓愈(かんゆ)とともに「韓柳」と併称される。後世では、出身地にちなんで柳河東、晩年の任地にちなんで柳柳州ともよばれる。『柳河東集』45巻が編まれていて、詩は約160首がある。793年(貞元9)21歳の若さで進士に及第。33歳、監察御史裏行(りこう)のとき、王叔文(753―806)らが、即位した順宗(在位805)を後ろ盾として推し進めた政治の改革運動に参加。だがこの運動は宦官(かんがん)・旧官僚の反撃にあって5か月で挫折(ざせつ)した。順宗は退位し、王叔文は翌806年、死を賜り、柳宗元は永州(湖南省零陵)の司馬に流されるなど、おもだった8人は辺地の司馬に流された。世に「八司馬の事件」という。10年後、柳州(広西チワン族自治区柳州市)の刺史(長官)に遷(うつ)され、奴婢(ぬひ)を解放するなど多くの改革を行い、819年(元和14)47歳で卒(しゅつ)した。
彼は「王孟韋柳(おうもういりゅう)」と称される自然派の四詩人の一人で、有名な詩として「南澗(なんかん)中に題す」「漁翁」「江雪」などがある。文章家としては、韓愈とともに、形式にとらわれぬ古文運動を提唱し、六朝(りくちょう)以来、数百年にわたって文章は駢文(べんぶん)(四言・六言の対句づくりの文)と決まっていた流れを一変した。文に、南方の山水の美を写した『永州八記』、政治を風刺した「蛇を捕うる者の説」「種樹郭橐駝(しゅじゅかくたくだ)伝」、歴史的政治論の「封建論」、無神論的な「非国語」などがある。
[中島敏夫 2016年1月19日]
『横山伊勢雄訳『中国の古典30 唐宋八家文 上』(1982・学習研究社)』▽『林田慎之助著『中国の詩人9 柳宗元』(1983・集英社)』
中国,唐代中期の文学者。字は子厚,原籍により河東(山西省)の人と称して柳河東と呼ばれ,最終官により柳柳州ともいう。貞元9年(793)の進士。798年,博学宏詞科に合格,官途につき,805年,徳宗皇帝の崩後,順宗皇帝の側近王伾・王叔文のもとに集まった革新官僚の一人として礼部員外郎(ここから柳儀曹ともいう)となり腕をふるったが,順宗が病気で退位し,憲宗皇帝が即位すると,革新派は失脚,柳宗元も永州(湖南省)員外司馬として流謫された。815年(元和10),長安に召還されたが,すぐ柳州(広西チワン(壮)族自治区)刺史に赴任,その地で亡くなった。散文家として,韓愈とともに自由に主張を述べられる古文文体を唱え,唐宋八大家の一人である。官途に挫折し,華南の山水の美に接したことによって,感慨と風景描写とが融合した〈永州八記〉などの文章を書き,叙景文の模範とされる。政治批判は,失脚によって寓言などの比喩形式をとらざるをえなくなり,そのため形象性が豊富となって,思想と表現とが適切に融合を遂げた散文文学を作りあげた。思想的にも,天には意志なしとするなど,唯物論的傾向がある一方,仏教に深い関心を示し,文体も対句的表現を必ずしも拒否しないなど,韓愈よりも柔軟な思想態度が見られる。詩も,王維,孟浩然,韋応物と並ぶ自然詩人とされるが,自然をうたうなかに,境遇から生まれる悲哀をにじみ出させる。詩文は《河東先生集》に収める。
→古文運動
執筆者:清水 茂
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773~819
唐後期の文学者。河東(山西省)の人。字は子厚(しこう)。韓愈(かんゆ)とともに古文の復興者とされる。王叔文(おうしゅくぶん)の政治改革に参加して追放され不遇であったため,かえって持ち前の合理主義を徹底して,反抗精神に満ちた文を書いた。
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…9世紀初め,中国の唐代に韓愈や柳宗元がおこした散文改革運動。六朝時代に対句や典故,平仄(ひようそく)などを極端に重視する四六駢儷文(駢文(べんぶん))が流行し,唐代にも引き継がれたが,安史の乱(755‐763)によって貴族社会の基盤が大きく揺らぐとともに,この装飾的で内容の空疎な美文に対する反省の機運が高まった。…
…自然の風景を遊覧した記録。美しい風景を描写する文章は,北魏の酈道元(れきどうげん)の地理書《水経注》にすでに見られるが,唐の柳宗元が華南に流謫(るたく)され,北方と異なる山水の美を自らの感慨をまじえて記述した《永州八記》が模範となり,その後,親しく遊覧した山水を記述する文学が多く作られた。宋代では,范成大《呉船録》,陸游《入蜀記》のように紀行文が単に旅程の記録にとどまらず,風景描写を含み,遊記の性格を持つものが生まれた。…
…前者の《原道》のごときは,儒学革新の導火線となり,後者の才能は多くの墓誌銘,祭文,哀辞など死者を弔う文によく発揮され,ともに後世の模範となった。彼の友人,柳宗元もこの運動に大きな寄与をしたが,スタイルはやや異なり,人間を直接に描くよりも,風刺,寓話によって,抑圧された心情,瞑想を表明した。韓愈の門人たちは,彼のスタイルの強い影響を受けたが,晩唐ではなお四六文の勢力が強かった。…
…正しくは《唐宋八大家文読本》といい,全30巻から成る。しかしこの沈徳潜本の成立までに明の茅坤(ぼうこん)の《唐宋八大家文鈔》と清の儲欣(ちよきん)の《唐宋十大家全集録》があり,しだいに《読本》の唐の韓愈,柳宗元,宋の欧陽修,蘇洵(そじゆん),蘇軾(そしよく)(東坡),蘇轍(そてつ),曾鞏(そうきよう),王安石に定着したのである。沈徳潜は同書の序文でも唐宋文から漢代の文章である漢文にさかのぼるべきであると主張している点でもわかるように,明の古文辞派の〈文は秦漢〉のスローガンにも,ある程度の同情を寄せている格調派の指導者である。…
…前代をうけて遊記に新しい内容を盛りこんだのは元結で,《右渓記》にみえるように,僻遠の深山幽谷ではなく都会に近い小渓への遊行を題材に,自然のうつろいの中に自身の境遇を寄託し,自然描写と自身の感情表現を結びつけ,文学としての遊記の新しい境地を開いた。これを発展させ《始得西山宴游記》《鈷鉧潭記》など,優れた多くの作品を残したのが柳宗元である。彼は永州(湖南)や柳州(広西)へ貶流され,粗放な自然に触れ,既知の名山名水への遊行では得られない新鮮な感動と,みずからの不遇ではあるが自由な心情を合一させて叙述し,その遊記は唐代の散文の中でも独特の位置を占める。…
※「柳宗元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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