日本歴史地名大系 「日知屋城跡」の解説
日知屋城跡
ひちやじようあと
伊東氏は長禄元年(一四五七)の小浪川の戦で土持氏を滅ぼし、塩見川流域一帯を支配下に入れたとされ、文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)に、伊東氏の持城「山東城」の一つとして「比知屋」城が記される。「日向記」によれば、一族の伊東祐邑が城主であったが、文明一八年(一四八六)に大友氏に通じて宗家に謀反したとして殺害されている。その後伊東宗家直轄の城として与力衆が組織され、天正年間(一五七三―九二)には「ひちや衆」として福永又八郎・同周防守・同新三郎ら福永姓六名、多田紀伊介・中村壱岐守・大塚八郎・畠山主水・永嶺弥四郎・坂本右馬助・同七郎二郎などがいた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報