日本歴史地名大系 「日知屋村」の解説 日知屋村ひちやむら 宮崎県:日向市日知屋村[現在地名]日向市原町(はらまち)一―四丁目・鶴町(つるまち)一―三丁目・高砂町(たかさごちよう)・向江町(むかえちよう)・江良町(えらちよう)・永江町(ながえちよう)・曾根町(そねちよう)・山手町(やまてちよう)・浜町(はままち)・中堀町(なかほりちよう)・新生町(しんせいちよう)・平野町(ひらのちよう)・伊勢(いせ)ヶ浜(はま)・梶木町(かじきちよう)・大王町(だいおうちよう)・日知屋・日知屋古田町(ひちやふるたちよう)・船場町(ふなばちよう)・竹島町(たけしまちよう)富高(とみたか)村の東に位置し、南境を塩見(しおみ)川が東流する。比知屋・日智屋とも記した。在郷町の細島(ほそしま)町がある。豊後街道が庄手(しようで)・梶木を通り、門川(かどがわ)村(現門川町)に抜ける。康永三年(一三四四)閏二月二八日の尼明知沽却状(妙本寺文書)に「日向国富田庄内日智屋寺」とみえ、富田(とんだ)庄に含まれ日智屋寺があった。同寺は本善(ほんぜん)寺あるいは財光(ざいこう)寺(現定善寺)のことと思われる。一五世紀後半には伊東氏が比知屋城を持城とした。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)では「日知屋之内六反田五反 同所するき五反」が江田(えだ)八幡宮(現門川町)領であった。天正五年(一五七七)伊東義祐は島津軍に追われ豊後に逃亡。当地付近は島津勢力と大友勢力の境界となっていた。翌年一一月、大友軍を破った島津軍は当地を含む日向一帯を手中に入れた。その後当地一帯は島津家の将吉利忠澄が領した(「上井覚兼日記」同年一一月一四日条ほか)。天正一五年島津氏は豊臣秀吉の圧力に屈して日向を返還。秀吉の九州仕置により当地は高橋元種(のち延岡藩主)領となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by