日野沢村(読み)ひのさわむら

日本歴史地名大系 「日野沢村」の解説

日野沢村
ひのさわむら

[現在地名]山形村日野沢

久慈川支流の日野沢川流域に広がり、北は戸呂町へろまち村、西は荷軽部にかるべ村。全体が丘陵地帯。旧高旧領取調帳で初めて独立村とされるが、集落の形成は古かったようで、日野沢館は日野沢弥左衛門の居館と伝えられ、日野沢新助正行が南部信直方として天正一九年(一五九一)九戸政実の乱に加わったという(九戸軍談記)。元和五年(一六一九)にはたてさわ左郷平さごうたいで砂金採集がなされたといわれる(九戸郡誌)。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では南山形通村三ヵ村の一として村名がみえ、田七斗余・畑四二石余。天保八年(一八三七)の仮名付帳では戸呂町村の枝村として日ノ沢村とみえる。


日野沢村
ひのさわむら

[現在地名]田子町田子 日ノ沢ひのさわ

熊原くまはら川左岸の丘陵地に位置し、東は斗内とない(現三戸町)、西と南と北は田子村に接する。戦国時代より三戸南部氏の配下に入り、天正(一五七三―九二)の頃日野沢館に日沢氏が住したとされる。

天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、高四八・八八六石とある。七ヵ年平均の免は一ツ一分九厘三毛。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分八・七石余、給分五〇・四石余とあり、家数は一二で、馬一〇疋を飼養。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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