山形村
やまがたむら
[現在地名]田沼町山形
彦間川の流域を占め、東西を山に囲まれる。東は戸奈良村、西は寺窪村(現佐野市)、南は出流原村(現同上)、北は閑馬村。長禄三年(一四五九)一二月の高師長本領目録(古文書集)に、下野国足利庄内として「山形郷」とある。慶安郷帳によれば田五八石余・畑五四一石余・浮役七九石余、朽木稙綱領。寛文元年(一六六一)から上野館林藩領、天和二年(一六八二)から旗本堀・鵜殿・松平・保科四氏の相給。元禄一〇年(一六九七)保科領は幕府領を経て慶応三年(一八六七)前橋藩領となり、一藩三旗本領で幕末に至る(旧高旧領取調帳)。元和三年(一六一七)には本百姓二一・門屋百姓五(「日光御用割付」野城勝文書)。元文五年(一七四〇)の村明細帳(小暮九平文書)によれば村域は東西一一町余・南北一六町余。
山形村
やまがたむら
面積:二九五・〇五平方キロ
郡の南部にあり、久慈川の源流域一帯を占める。北は軽米町・大野村、東は久慈市、南は下閉伊郡岩泉町・岩手郡葛巻町、西は九戸村。南境は遠島山(一二六二・七メートル)、遠別岳、平庭岳(一〇五九・八メートル)と続く峰で、白樺林もみられる高原地帯。平庭岳は「管轄地誌」の江刈村(現葛巻町)の項によれば、登路約二八町、霜畑村にまたがるとみえる。
山形村
やまがたむら
面積:二七・一〇平方キロ
鉢盛山(二四四六メートル)の尾根続きの東北の清水山東山麓に開けた台地状の村。東は松本市今井・神林・和田地区、西北は波田町、南は朝日村に接する。
「東筑摩郡村誌」に「古時土地ノ地形ヲ象ドリ山形郷ト称ス、中古今井組ニ属シ元禄ノ頃三村トナル」とあるが、古記録に山形郷は見あたらない。中世には府中(松本)の小笠原氏が支配し、大永年間(一五二一―二八)、伊那箕輪の城主藤沢氏の預り領となり、天正一〇年(一五八二)小笠原貞慶が松本平を回復するとその所領となり、同一九年小笠原氏から石川氏に代わり、慶長一八年(一六一三)に再び小笠原秀政が領し、移封後高遠城(現上伊那郡)の保科正光の領地となり、以後この地を西五千石と称し、寛永一三年(一六三六)高遠城が鳥居氏に代わり、鳥居氏移封後は幕府の直轄領となり、元禄二年(一六八九)から寛保三年(一七四三)まで松本藩戸田氏の預り領となり明治に至った。
山形村
やまがたむら
[現在地名]塙町山形
川上村の東、川上川中流域の山間に立地。江戸時代の領主の変遷は常世北野村と同じ。慶長八年(一六〇三)の常世之内北野村縄打帳(福島県史)に、山形村・大畑村・渡舟(湯舟)村・前田村がみえ、大畑村以下三村はのち当村の枝郷として扱われた。正保郷帳によると山形村の高五〇八石余、うち田二五〇石余・畑二五八石余。元禄郷帳では山形村の高二七六石余、湯舟村の高八七石余、大畑村の高一〇一石余、前田村の高一三五石余。
山形村
やまがたむら
[現在地名]石川町山形
北流する社川東岸の丘陵地に位置し、対岸は沢井村、北は下泉町、東は北山形村・南山形村、南は山白石村(現浅川町)。天保郷帳に下泉町枝郷と注記される。地内には五基の板碑が所在し、字岸久内には興国元年(一三四〇)二月二八日銘をもつ種子板碑がある。字松森に中世の松森館跡があり、「石川郡地史」によれば館主は石川氏の家臣右京介という。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、その後の領主変遷は高田町と同じ。白河古領村郷高帳による高九六六石余。旧高旧領取調帳では高七〇四石余。
山形村
やまがたむら
[現在地名]新旭町旭
森村の南、西は辻沢村・今市村。応永二九年(一四二二)の木津庄検注帳(饗庭文書)に山形湯田とある。天正二年(一五七四)の定林坊田畠帳(同文書)に山かたとみえる。慶長五年(一六〇〇)以前に小野氏領となり、寛永石高帳に山方村とあり、高一二九石余。慶安高辻帳では田方一二一石余・畑方八石余。旗本小野氏は代々大津代官を勤め、当地には小野氏の代官所が置かれた。明治一二年(一八七九)森村など四村と合併して旭村となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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