田子村(読み)たつこむら

日本歴史地名大系 「田子村」の解説

田子村
たつこむら

[現在地名]田子町田子

田子川と種子たねこ川の合流点に位置し、鹿角かづの街道に沿う。四辺に支村が散在し、東は斗内とない(現三戸町)、西は相米そうまい村、北は日野沢ひのさわ村・種子村に接する。

正安三年(一三〇一)のきぬ女家族書上案(新渡戸・岩大文書)に「つる女子八才きたのかと(北門)たこ(田子)にあり」とみえる。戦国時代より三戸南部氏の支配下に入ったが、明応年中(一四九二―一五〇一)二〇代南部信時が田子館へ一時退隠し、大永(一五二一―二八)の頃には南部高信(石川高信)が同館に拠って二四代晴政を補佐したという(南部史要)。通説によれば弘治年中(一五五五―五八)より天正一〇年(一五八二)まで田子九郎信直(初代藩主南部信直)が在城し、二代藩主利直も当所で生をうけた。年不詳の九月二七日付の東政勝書状案(遠野南部文書)に「九郎殿親父之時より諸事一戸ニ被申合候始末ニ候之間、何趣も身躰相任申度与被申候、付而自一戸久慈へ被仰合候而、三戸へ和談之儀御取合可有之由承候、然間一戸江州田子へ被罷越候へとも何共到来未承候」とあり、一戸氏が田子へ出張しているが、これは永禄一〇年(一五六七)の頃のことと推定される。

雑書の正保三年(一六四六)八月二二日条に「田子村不動院子、間二郎女房、同娘、此二人当月十九日於松山境染田作右衛門、中館五兵衛請取候由」とある。翌四年の南部領内総絵図に田子村、九〇三石余とあり、同年の郷村帳によれば九〇三・〇九三石のうち五六八・一五六石が田であった。雑書の承応三年(一六五四)四月一日条によれば当村と名久井なくい(現名川町)など四ヵ村の検地が命ぜられ、同年六月四日条によれば、田子・名久井中の検地高目録が書上げられ、両村合せて蔵分本高六五一八・二八石、給分本高三七〇三・一三一石、合せて本高一万二二一・四一一石、うち入目三九八・四三七石、今高九八二二・九七四石となっている。


田子村
たごむら

[現在地名]西伊豆町田子

駿河湾に面し、東には天城あまぎ山系の山を負う。農耕地区の大田子おおたごと漁業に適した井田子いたごからなる。平城宮跡出土の木簡に「那賀郡丹科郷多具里」とあり(「木簡研究」六―一二頁)、多具を田子にあてる説がある。多胡・多子とも記す。たご神社に所蔵される文亀三年(一五〇三)六月二八日付棟札には「仁科多胡郷」とみえ、永禄三年(一五六〇)五月二日の棟札には「仁科庄大多古郷」とあり当地は仁科にしな庄に含まれていた。「北条五代記」によると明応二年(一四九三)北条早雲が伊豆に進攻した際、「田子の山本太郎左衛門尉」が北条氏に降った。山本太郎左衛門尉は北条氏所領役帳には所領役高三〇貫文「伊豆奥田子」とみえ、合計一三五貫の知行高を伊豆に領有し本光院(故北条為昌)衆の一員であった。


田子村
たごむら

[現在地名]仙台市田子・福田町ふくだまち一―四丁目・扇町おうぎまち一丁目・同六―七丁目・卸町東おろしまちひがし一丁目・鶴代町つるしろまち福住町ふくずみまち

七北田ななきた川を挟んで福室ふくむろ村の西に位置する。東流する梅田うめだ川と七北田川の合流域に足軽衆を配した福田町がある。西は梅田川沿いの苦竹にがたけ村。村名は古く海辺で多湖浦たごのうらの地であったことに由来するといい、古歌「あまた度君かこころをみちのくの多湖のうらしま恨てそふる」を伝える(安永風土記)


田子村
たごむら

[現在地名]長野市大字田子

北国脇往還が南北に通じている。東は長峰ながみね山で南郷みなみごう村(現上水内かみみのち郡豊野町)・三才さんざい村と、西北山千寺さんせんじ道・山林などでよし村と、南は上野うえの村に接している。

田子の地名の初見は、天正七年(一五七九)の諏訪社下社の下諏訪春宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に、「外籬廿間 若槻庄之内、取手竹居祝・辰野伝兵衛・諏方伊賀守(中略)正物六百文 代官 (市)河梅隠同心足軽衆 田子之郷」とある。


田子村
たごむら

[現在地名]富士市田子・浜田町はまだちよう

鮫島さめじま村に東・西・北を囲まれ、南は駿河湾に面し、低地に立地する。潤井うるい川の左岸ぬま川との合流点の北に飛地があった。村名は延宝年中(一六七三―八一)幕府代官古郡重年の検地の時、小川に架かる田子橋より名付けたという(「駿河記」ほか)。加島新田開発によって成立した村。延宝七年(一六七九)の加島領郷帳(須津文書)に田子村加島新田とみえ、高四六石余。うち四〇石余の反別は潮入田六町余・潮入畑一町四反余で、見取地であった。元禄郷帳では加島田子村とみえ同高。国立史料館本元禄郷帳では幕府領


田子村
あしだこむら

[現在地名]大館市芦田子

大館盆地北東端、獅子森ししがもり(二二四メートル)の東麓部。大茂内おおしげない沢の入口付近にあり、下代野しもだいの村より北上して商人留あきひとどめ村に入る山道は俗に天下てんか道とよばれ、村の西部を縦断する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、「芦田子村 先には家六軒、今は八軒。元禄十四巳より新沢村へ加り南部境目郷となる」とみえる。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳に当高五五石余で蔵分とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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