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日野重子 ひのしげこ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日野重子
ひのしげこ

[生]応永18(1411)
[没]寛正4(1463).8.8. 京都
室町幕府6代将軍足利義教の室。裏松重子ともいう。日野重光の娘。7代将軍義勝,8代将軍義政の生母として権勢をふるった。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日野重子 ひの-しげこ

1411-1463 室町時代,足利義教(よしのり)の妻。
応永18年生まれ。日野重光の娘。7代将軍足利義勝(よしかつ),8代将軍義政の生母として,彼らを補佐し,幕政に関与した。義政の妻となった甥(おい)政光の娘日野富子の後ろ盾ともなった。寛正(かんしょう)4年8月8日死去。53歳。通称は大方殿。法号は勝智院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

日野重子

没年:寛正4.8.8(1463.9.20)
生年:応永18(1411)
室町時代,日野重光の娘。姉観智院と共に室町幕府6代将軍足利義教の妻となり,義勝,義政を生む。義教の時代,日野家は義教の不興を買い将軍家との関係が悪化したが,重子の生んだ義教最初の男子義勝は正室三条尹子の猶子となり将軍となった。義勝早世後も重子所生の義政が継いで将軍となり,重子は将軍の生母として幼主を後見しながら宿老会議を主催した。重子の政治介入は義勝将軍宣下から義政将軍宣下の間に,寺院,公家の人事を中心に行われ,幕政に大きな影響力を持った。日野家の権勢復活はこの時期に培われたともいわれる。甥政光の娘富子が義政の妻となってからは富子の後ろ盾ともなっている。将軍義政の乳母であった今参局 の義政の政治への介入を怒り,長禄3(1459)年,富子が男子を死産した際,局を追放,自害に追いこんだのも重子の内命によるものであったといわれている。<参考文献>高橋修「日野(裏松)重子に関する一考察」(『国史学』137号)

(西尾和美)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日野重子
ひのしげこ
(1411―1463)

室町幕府6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の室。日野(裏松)重光(しげみつ)の女(むすめ)。7代将軍義勝(よしかつ)、8代将軍義政(よしまさ)の生母。1441年(嘉吉1)義教が赤松満祐(みつすけ)によって殺されると、8歳の義勝が後を継いだ。しかし生来虚弱な義勝は10歳で夭逝(ようせい)し、弟義政が家督を継ぎ、49年(宝徳1)元服して8代将軍となる。重子は幼少の彼らを補佐し、政所(まんどころ)執事伊勢貞親(いせさだちか)とともに幕政を左右する大きな影響力をもつに至った。義政の側近烏丸資任(からすまるすけとう)は重子の従兄(いとこ)であり、また義政の室日野富子(とみこ)やその兄勝光(かつみつ)は重子の兄義資(よしすけ)の孫にあたる。中世最大の飢饉(ききん)といわれる寛正(かんしょう)の大飢饉(1460~61)のさなか、義政は母重子のために高倉第の造営に着手したが、それは障子1枚が銭2万疋(ひき)といわれ、贅(ぜい)を尽くしたものであった。重子は従(じゅ)一位に叙せられ、寛正4年8月8日、53歳で没した。法号は勝智院。[酒井紀美]

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