日本大百科全書(ニッポニカ) 「日野重子」の意味・わかりやすい解説
日野重子
ひのしげこ
(1411―1463)
室町幕府6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の室。日野(裏松)重光(しげみつ)の女(むすめ)。7代将軍義勝(よしかつ)、8代将軍義政(よしまさ)の生母。1441年(嘉吉1)義教が赤松満祐(みつすけ)によって殺されると、8歳の義勝が後を継いだ。しかし生来虚弱な義勝は10歳で夭逝(ようせい)し、弟義政が家督を継ぎ、49年(宝徳1)元服して8代将軍となる。重子は幼少の彼らを補佐し、政所(まんどころ)執事伊勢貞親(いせさだちか)とともに幕政を左右する大きな影響力をもつに至った。義政の側近烏丸資任(からすまるすけとう)は重子の従兄(いとこ)であり、また義政の室日野富子(とみこ)やその兄勝光(かつみつ)は重子の兄義資(よしすけ)の孫にあたる。中世最大の飢饉(ききん)といわれる寛正(かんしょう)の大飢饉(1460~61)のさなか、義政は母重子のために高倉第の造営に着手したが、それは障子1枚が銭2万疋(ひき)といわれ、贅(ぜい)を尽くしたものであった。重子は従(じゅ)一位に叙せられ、寛正4年8月8日、53歳で没した。法号は勝智院。
[酒井紀美]