日本歴史地名大系 「日開谷村」の解説
日開谷村
ひがいだにむら
慶長二年(一五九七)の分限帳に「日開山分」とあり、高一〇〇石余・高六〇石余の二筆が森内次の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「ひかい谷」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「ひかい谷村」と記される。寛永一〇年の人改帳(市場町史)によれば、有高一八一石余のうち高九二石余が山内理助、高八九石余が沢地孫左衛門の給知で、総人数一〇二のうち政処(のちの庄屋)一、政処の子弟・下人二七、行二、本百姓一四・間人四・奉公人三・本銀返し買人一・病者一〇・子弟下人牛飼三七となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報