早速 整爾
ハヤミ セイジ
明治・大正期の政治家 蔵相;農相;衆院議員(憲政会)。
- 生年
- 明治1年10月2日(1868年)
- 没年
- 大正15(1926)年9月13日
- 出生地
- 安芸国沼田郡新荘村(広島県三篠町)
- 旧姓(旧名)
- 中山
- 学歴〔年〕
- 東京専門学校(現・早稲田大学)政治科卒
- 主な受賞名〔年〕
- 勲一等
- 経歴
- 埼玉英和学校教師、博文館勤務後、明治22年芸備日日新聞に入社、社主早速家の養子となり、また主筆ともなり、のち経営に携わる。かたわら広島市会議長、広島商業会議所会頭、広島電燈、山口瓦斯、日清燐寸などの重役を兼任。35年以来衆院議員当選8回、その間花井卓蔵らと又新会、中正会を組織、のち憲政会領袖となり、大正4年衆院副議長、14年第2次加藤内閣農相、15年第1次若槻内閣の蔵相・農相を務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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早速 整爾
ハヤミ セイジ
- 肩書
- 蔵相,農相,衆院副議長
- 旧名・旧姓
- 旧姓=中山
- 生年月日
- 明治1年10月2日
- 出身地
- 広島県三篠町
- 学歴
- 東京専門学校政治科卒
- 経歴
- 埼玉英和学校教師、博文館勤務後、「芸備日日新聞」主筆となり、のち経営に携わる。かたわら広島市会議長、広島商業会議所会頭、広島電燈、山口瓦斯、日清燐寸などの重役を兼任。明治35年以来衆院議員当選8回、その間花井卓蔵らと又新会、中正会を組織、のち憲政会領袖となり、大正4年衆院副議長、14年第2次加藤高明内閣農相、次いで第1次若槻礼次郎内閣の蔵相・農相を務めた。
- 受賞
- 正三位勲一等
- 没年月日
- 大正15年9月13日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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早速整爾
没年:大正15.9.13(1926)
生年:明治1.10.2(1868.11.15)
明治大正期の政党政治家。安芸国(広島県)沼田郡新荘村に武士中山源蔵,くまの子として生まれる。広島県広島中学校に入学したが,16歳で無断で上京,恩師田原栄の書生となって東京専門学校(早大)に入学し政治家を志す。在学中にすでに『芸備日報』(のち『芸備日日新聞』)に寄稿し,それが縁で明治22(1889)年同社に入社,社主早速家の養子となり,また主筆ともなり,同社の発展に尽くす。彼は「経済は政治なり」との信念で紙面においても派手な社会問題より地味な経済問題を重視し,自らも実業方面で活躍した。その後,広島県会議員,広島市会議員を経て35年衆院議員に無所属で当選,島田三郎や同県の花井卓蔵らと政界革新同志会を組織するなど急進派として活動する。大正5(1916)年衆院副議長に当選,6年憲政会に入党,14年農林大臣,15年大蔵大臣となる。放蕩な青年時代であったが,その後の努力と友誼に厚い性格で大臣にまでなった。<参考文献>湊邦三『早速整爾伝』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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早速整爾 はやみ-せいじ
1868-1926 明治-大正時代の政治家。
明治元年10月2日生まれ。「芸備日日新聞」主筆から,広島市会議長などをへて,明治35年衆議院議員(当選8回,憲政会)。第2次加藤高明内閣の農相,第1次若槻(わかつき)内閣の農相,蔵相をつとめた。大正15年9月13日死去。59歳。安芸(あき)(広島県)出身。東京専門学校(現早大)卒。旧姓は中山。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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