大正時代から昭和初頭にかけて立憲政友会と並び称された保守政党。第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣末期の1916年(大正5)夏より高田早苗(さなえ)文相が中心となり、政権の維持と強化を目ざし、与党の立憲同志会と中正会、公友倶楽部(くらぶ)の一部が合同して10月10日に結成された。総裁には加藤高明(たかあき)、総務には高田のほか尾崎行雄(おざきゆきお)、武富時敏(たけとみときとし)、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、片岡直温(なおはる)、浜口雄幸(おさち)、安達謙蔵(あだちけんぞう)が就任し、衆議院議員定員381名中199名を擁する大政党となった。大隈首相は総辞職にあたり加藤を後任首相に推挙したが、元老は加藤を拒否し、寺内正毅(まさたけ)内閣が成立した。憲政会は野党として寺内内閣と対決し、立憲国民党と提携して衆議院解散に追い込んだが、17年4月の第13回総選挙では121名と惨敗を喫し、20年5月の第14回総選挙でも110名と敗北、政友会の隆盛のもとで野党として「苦節十年」を強いられた。しかし20年2月、高揚する普通選挙運動に突き上げられて普選即行論に踏み切り、シベリア出兵批判、軍備縮小、国際協調などを主張して民本主義的世論を部分的に代弁した。
憲政会は本来、大ブルジョアジーと地主の利害を代表する保守政党であるが、上記のような政治革新を要求して都市小ブルジョアジーや中小ブルジョアジーのうえに党勢を拡張することに成功した。1924年1~5月、政友会、革新倶楽部とともに第二次憲政擁護運動を指導し、5月の第15回総選挙では151名と大勝、6月第一次加藤高明内閣(護憲三派内閣)を成立させ、政党政治を確立した。その後政友会と対立、25年8月には憲政会単独で第二次加藤内閣を組織したが、26年1月加藤首相が病死したため、若槻礼次郎が2代目総裁に就任し、第一次若槻内閣を発足させて政権を維持した。しかし若槻内閣は金融恐慌勃発(ぼっぱつ)後の27年(昭和2)4月、台湾銀行救済緊急勅令案をめぐって枢密院と対立して総辞職、政友会単独の田中義一(ぎいち)内閣が成立した。そこで憲政会は田中内閣と政友会に対抗するため、5月31日政友本党と合同し、立憲民政党を結成、ここに保守二大政党時代を迎えた。
[木坂順一郎]
『憲政会史編纂所編・刊『憲政会史』(1926)』▽『大津淳一郎著『大日本憲政史 第7~9巻』(1927・宝文館/復刻版・1970・原書房)』
大正時代に政友会と対抗し,政党の世界を2分した政党。第2次大隈重信内閣の末期,与党3派の間に次期政権がらみで合同の動きが始まり,1916年10月10日,寺内正毅内閣成立の翌日,立憲同志会の全代議士を主軸に,中正会の大半と公友俱楽部の半数が加わり,結党した。所属代議士は198名。総裁加藤高明を若槻礼次郎,浜口雄幸,安達謙蔵の3幹部が補佐する体制は,終始変わらなかった。つねに政党内閣主義の旗印を掲げ,藩閥官僚勢力と対立し,元老に忌まれて〈苦節十年〉の間政権から遠ざけられた。17年4月の第13回総選挙では121人の少数党に落ち込み,次期20年5月の第14回総選挙でも110人と振るわなかった。18年の米騒動により政権を握った政友会原敬内閣の積極政策に対し,緊縮財政とシベリア撤兵を主張し,微温的ながら選挙権の拡張と労働組合の公認などの社会政策を唱えた。21年原敬の暗殺にともない高橋是清内閣が登場すると,一段と革新色を強め,明確に普通選挙制を主張し国民運動化した普選運動の指導権を握り,また治安維持法の先駆たる過激社会運動取締法制定に反対し,さらに軍備縮小を唱えるなど,世論の支持を受けた。都市部を中心とする党勢復活の基礎はこの間に養われた。つづく加藤友三郎,第2次山本権兵衛両内閣にも野党の立場を維持した。山本内閣末期ひそかに政友会総裁派と結び,24年1月,貴族院を母体とする清浦奎吾内閣が出現すると,分裂した政友会主流および革新俱楽部とともに護憲三派を結び,第2次護憲運動を展開した。その結果5月の第15回総選挙では151名を当選させ第一党となり,加藤高明が首相に指名され護憲三派内閣を組織した。翌年7月三派内閣解体後は加藤が憲政会単独内閣を維持し,26年1月加藤の死後は若槻が総裁と首相の座を継承した。
この間憲政会政権は対外的には外相幣原喜重郎のもとで幣原外交と称される協調外交を展開,内政面では,普通選挙法制定,貴族院改革,軍縮を含む行財政整理など成果をあげた。しかし治安維持法の制定,労働組合法の流産は野党時代の革新色のおとろえを示した。26年末朴烈怪写真事件を利用して政友会と政友本党が提携して倒閣運動をおこすと,憲政会内には議会解散要望の声が強まったが,若槻は3党首会談で妥協。憲政会は政友本党と結んで政権の維持を図ったが,27年4月,金融恐慌救済策で枢密院の反対を受けて若槻内閣は辞職。憲政会,政友本党の両党は合同へと進み,同年6月1日,浜口を総裁とする立憲民政党が成立した。
執筆者:松尾 尊兊
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大正~昭和初期の政党。1916年(大正5)10月10日,第2次大隈内閣の与党である立憲同志会・中正会・公友倶楽部が合同して結成。総裁は加藤高明。第1次大戦後は普通選挙を主張,過激社会運動取締法制定に反対し,軍備縮小を唱えた。24年1月清浦内閣が成立すると,政友会・革新倶楽部とともに第2次護憲運動を展開して倒閣に成功,同年6月加藤高明を首班とする護憲三派内閣を組織した。翌年7月護憲三派解消後は,加藤が憲政会単独内閣を維持。26年1月加藤の死後は若槻礼次郎が総裁と首相を継承。若槻内閣が金融恐慌の収拾に失敗して27年(昭和2)4月総辞職すると,憲政会は政友本党と合同して,同年6月立憲民政党を結成した。
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…結局内閣改造におわり,同志会は大浦・加藤・若槻に代えて箕浦勝人と準党員高田早苗を送り,与党関係を維持した。翌年大隈が辞意を示し加藤を後継首相に想定するとともに,8月より高田を提唱者として,同じ与党たる中正会,公友俱楽部,同志会3派の合同運動が起こり,次期寺内正毅内閣成立の翌日たる10月10日,憲政会の結成をみた。 なお,1897年進歩党を退いた田口卯吉ら8人の代議士により,ついで1912年旧又新(ゆうしん)会員11人により〈同志会〉の名称の結社がつくられたことがあるが,いずれもその翌年消滅した。…
※「憲政会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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