春吉村(読み)はるよしむら

日本歴史地名大系 「春吉村」の解説

春吉村
はるよしむら

[現在地名]中央区春吉一―三丁目・西中洲にしなかす渡辺通わたなべどおり一―五丁目・清川きよかわ一丁目・高砂たかさご一―二丁目・白金しろがね一―二丁目・天神てんじん一丁目、南区那の川なのかわ一―二丁目、博多区博多駅前はかたえきまえ二―三丁目・住吉すみよし一―二丁目

那珂なか郡に所属。那珂川下流左岸に位置し、西は福岡城下今泉いまいずみ村・しよう村など。住吉神社(現博多区)の九月の祭礼の時に当地が市場となり、人が多く集まって秋の穀物が踏荒されるため春麦だけを作り、春の作物が良いという意味で春吉といったとの伝承がある(続風土記)。慶長七年(一六〇二)検地の際は住吉村の内(慶長石高帳)。同年に分村するが、その頃は人家はなく、この地を耕す農民は博多に居住していたという。寛永一六、七年(一六三九、四〇)頃に二代藩主黒田忠之が当村を宅地として足軽を移した(続風土記)


春吉村
はるよしむら

[現在地名]小倉南区春吉

山本やまもと村の南、むらさき川の上流に立地する。初め大塚おおつか村という。元和八年人畜改帳に大塚村とみえ、御蔵納分の高一五〇石、給人一人分の高一五〇石余の二筆で、家数六四、人数一二三(うち百姓一四・名子一八)、牛一七・馬七。元禄国絵図では春吉村とし、古くは大塚村と注記される。郷村高帳では高三一三石余、うち新田高三三石余。幕末の各村覚書では本高二七九石余、田一八町一反余・畠五町八反余、物成一七九石余、竈数五二・家数一一五・人数二四七、牛四四・馬一八。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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