日本歴史地名大系 「春木庄」の解説
春木庄
はるきのしよう
古代の和泉郡
九条兼実の日記「玉葉」承安四年(一一七四)七月四日条に、春木庄について「件庄、隆行入道和泉任之間、文書
建立、寄
進春日社
、四季備
進御供
也」とみえ、また正平二三年(一三六八)七月当庄庄民のかかわった争論の折、庄民は「凡於当庄、始而被
立
庄号
事者、長寛二年甲申歳也」とし、それ以前については池田郷春木村と号していたと述べている(同月日「春木庄内本庄氏人等訴状」松尾寺文書)。これから当庄は長寛二年(一一六四)一七歳で父藤原忠通を失った兼実が、父の供養のため春日社に四季供料を寄せんとして、池田郷内春木村の地に立庄したものと考えられる。前掲「玉葉」同日条によれば、当時春木庄は、和泉国司平信兼が預所に任ぜられて庄務沙汰をしていたが、奈良興福寺五師の玄禅が悪徒を語らい濫行するため、これを止めるために摂関家氏長者の長者宣と兼実の御教書の下付を請うている。興福寺側が当庄に対する預所支配を不満として、排斥しようとの行動であったものか。「玉葉」治承二年(一一七八)五月二五日条に「和泉国春木庄、永可
為
春日社領
之由、成
政所下文
、賜
正
了」とみえ、従前どおり春日社領として再確認するとともに、預所に源有雅を任じた。
元暦元年(一一八四)和泉国守に源義経が任ぜられたが、義経は同二年正月二二日、春木庄内の観音寺(松尾寺)の住僧の住房に対して武士の狼藉をやめさせて、これを安堵している(同日「源義経安堵状案」松尾寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報