春木村(読み)はるきむら

日本歴史地名大系 「春木村」の解説

春木村
はるきむら

[現在地名]岸和田市春木〈いずみ町・南浜みなみはま町・北浜きたはま町・ほん町・大小路おおしようじ町・もと町・なか町・あさひ町・若松わかまつ町・宮川みやがわ町・宮本みやもと町・大国だいこく町〉・松風まつかぜ町・えびす町・八幡はちまん町・新港しんこう

村・加守かもり村の北、春木川(加守川)右岸の河岸段丘上に位置する海辺の村落。加守川が加守村との村境を西流し、野村との村境に入って春木川となって海へ注ぐ。吉井よしい村から流下してきたあまノ川が磯上いそのかみ村との村境を北西に流れ、流末は当村を通って海に注ぐ。紀州街道が村の東を、北東から南西へ貫通。地名は永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(熊野那智大社文書)に「カモリハルキ」とみえる。

文禄三年(一五九四)八月の嘉守郷春木村検地(原家文書)によれば高一千一〇九石余、うち一一二石余は永荒。三月より一〇月まで一ヵ月六三〇文ずつ計五貫四〇文の浦銭を納めることになっている。慶長九年(一六〇四)の加守郷春木村帳(東京大学史料編纂所蔵)でも同高、うち五七石は畑方。正保二年(一六四五)は一千三二二石余(「和泉国村高帳」鬼洞文庫蔵)


春木村
はるきむら

[現在地名]温泉町春来はるき

歌長うたおさ村の南東にある。春来川最上流域の山間部を占め、北は檜尾ひのきお村。山陰道は七美しつみ丸味まるみ(現村岡町)から北西方向に丸味川の谷を詰めて登ると、じようヶ山(五六二・四メートル)南側鞍部の春来峠を越えて当村に入り、今度は春来川沿いに下って歌長村に向かっていた。本村集落は山陰道沿いに城ヶ山の南西麓に発達、その北西方の春来川沿いに湯谷ゆだにの集落がある。春来とも書き、天保郷帳には「古は春来村」の注がある。地内に山陰道の一里塚があった(女代神社文書など)


春木村
はるきむら

[現在地名]鳥屋町春木

羽坂はざか村の北西、眉丈びじよう山麓北部台地に位置し、北は大槻おおづき村。地名は承和一〇年(八四三)当地にきたと伝える能登守春枝王に由来するともいう。「朝倉始末記」に永正元年(一五〇四)九月一三日のこととして、「能州ハル木」の斎藤氏がみえる。天文一七年(一五四八)二月二〇日の気多社免田年貢支配状(気多大宮司家文書)によると、気多社の符方中の神免として、春木村から二石五斗が守護畠山氏のもとに納められている。弘治三年(一五五七)五月二七日の大宮司職田注文(同文書)によれば、当村には一反の同社大宮司職田があって、百姓「ひたち」の作分となっていた。


春木村
はるきむら

[現在地名]千代田町春木

平家へいけじよう(六一九・七メートル)の南西麓に位置し、西側を志路原しじわら川が南東流、村内の北西端を石見浜田路が通る。嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(新出厳島文書)に、壬生みぶ庄の四至の北限として「春木谷」、また示の一処として「乾方春木谷東堺路」がみえる。さらに安元元年(一一七五)一一月日付の安芸国司庁宣(同文書)では、「春木・市折両村」が相伝の厳島社領であることを確認しており、治承三年(一一七九)一〇月日付の安芸国司庁宣写(楓軒文書纂所収厳島文書)でも同様のことを記す。


春木村
はるきむら

[現在地名]滑川市ひらき

早月はやつき川が形成した隆起扇状地(室山野台地)の南縁部に位置し、西は改養寺かいようじ村・金屋かなや村。村名は開発を意味する「開き」の変化とも、榛木(はんの木)に由来するとも伝える(東加積村誌)。文化年間(一八〇四―一八)の新川郡巨細絵図(県立図書館蔵)では、男鹿おじか野と記された広大な原野の一角にあたる。男鹿野の開発は当村と小鹿野おじかの村にかかわるもので、市田家文書によると宝永七年(一七一〇)広野ひろの(現上市町)の甚助によって開発願が出され開発が着手されたが失敗、安永七年(一七七八)から十村の小林こばやし村宗三郎によって引継がれ、「新開請高之内百八拾五石、金屋山安田山開、六歩去一作御図免」とある。


春木村
はるきむら

[現在地名]高梁市松原町春木まつばらちようはるき

飯部いいべ村の南に位置し、集落は標高四〇〇メートル前後の高原上に立地。寛永備中国絵図に村名がみえ、高二〇七石余、山崎家治先知。正保郷帳でも同高、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)。宮林少・芝草山大とあり、枝村に中道なかすじ村・皆名かいな村をあげる。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)では古高五〇九石余・新高六五二石余。


春木村
はるきむら

[現在地名]和泉市春木町

松尾寺まつおじ村の西に位置する松尾谷の一村。松尾川が流れる。中世は春木庄の中心地で、同庄総鎮守社であった春日社がある。当村に用水溜池千体せんたい池がある。呼称は昔、池頭に千体の石仏があったために生れたという。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ、高四七二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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