日本歴史地名大系 「春雨庵跡」の解説 春雨庵跡はるさめあんあと 山形県:上山市長清水村春雨庵跡[現在地名]上山市長清水 松山寛永六年(一六二九)紫衣事件により京都大徳寺の僧沢庵宗彭は上山藩に配流され、鏡(かがみ)橋の師岡氏宅に着いた。藩主土岐頼行は城南松山(まつやま)の高台に屋舎を建てて手厚く遇した。沢庵は「下よりもひえ候はぬやうにと山城殿御ねん入候」「此所一段とよき所にて候、何にても事の欠く事なく候」と感激し(沢庵書簡集)、この寓居を春雨庵と名付けて愛した。沢庵は流謫人とはいえ交際はかなり自由で、僧一糸(久我具尭の子)はじめ藩主・藩士・町人など庵を訪ねる者も多く、山形藩主鳥居忠恒・松前藩主松前公広とも厚誼を重ねた。沢庵は和歌にも長じ、山形の千歳(ちとせ)山、仙台や松島(まつしま)(現宮城県宮城郡松島町)に遊び、庵百首・夢百首・山姥百首などがある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by