日本の城がわかる事典 「上山城」の解説 かみのやまじょう【上山城】 山形県上山市にあった平山城(ひらやまじろ)。もともとは天童氏一門の上山氏の居城があったが、1514年(永正11)、城主の上山義房が伊達稙宗に敗れて天童城に退き、伊達氏の属城となった。義房の死後、子の武衛義忠が奪還して、そののち再築城したのが今日残っている上山城である。その後、主家の天童氏が山形城の最上義光と対立し、上山氏も天童氏一門として反義光の立場にたったことから、1580年(天正8)に義光は上山城を攻め落とし、最上氏の城となった。1622年(元和8)に最上氏が改易になった後は、3~4万石の上山藩の本城として、能見松平家、蒲生家、土岐家、金森家、藤井松平家と城主(藩主)をめまぐるしく変えながら明治に至った。また、上山城には当初は天守はなかったが、3層の天守と櫓(やぐら)門を持つ荘麗な近世の城郭となり、羽州の名城と形容されるまでになった。明治の廃城令により、取り壊されたり払い下げられたりしたために、当時の城郭は残っていない。現在、城跡は月岡公園や月岡神社の境内となっており、本丸西側の西内堀、土塁、石垣の一部と庭園が現存している。二の丸跡に3層の天守があるが、これは失われた天守を復元したものではなく、鉄筋コンクリート造の模擬天守で、内部は郷土歴史資料館になっている。JR奥羽本線かみのやま温泉駅から徒歩約10分。◇月岡城とも呼ばれる。 うえやまじょう【上山城】 鹿児島県鹿児島市新照院町にあった山城(やまじろ)で、南北朝時代に土豪上山氏が築城した。守護島津氏は初代忠久、忠時、久経と3代まで鎌倉に在住し、薩摩・大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)の三州では土豪が割拠していたが、上山氏もその一つ。上山氏は、正平年間(1346~69年)に桜島へと居を移し廃城となっていたが、1602年(慶長7)に島津家が鹿児島城を築城し、城山を詰めの城とした。明治の西南戦争では西郷隆盛がこの城山に籠もり、政府軍に敗れ自刃したことで有名。上山城の裏手を守るために武士の配置が決められていたところが夏陰城と呼ばれており、夏陰公園内に石碑が建てられていた。JR鹿児島本線鹿児島中央駅からバス、城山下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報