「たくわん」のつく語は、便宜上「たくあん」の項目に挙げた。
江戸初期の臨済(りんざい)宗の僧。諱(いみな)は宗彭(そうほう)。父は但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)城主山名宗詮(やまなそうせん)(祐豊(すけとよ)。1511―1580)の家臣の秋庭綱典(あきばつなのり)。10歳で出石の浄土宗唱念(しょうねん)寺に入り、その後、東福寺派宗鏡(すきょう)寺塔頭(たっちゅう)勝福寺の希先(きせん)(?―1591)、大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)(1549―1601)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(1529―1611)、大安寺文西(だいあんじもんさい)に従い修行を重ね、春屋の法弟一凍紹滴(いっとうしょうてき)(1539―1612)の印可を受け、37歳で大徳寺153世の住持となった。その後、諸氏の招きを辞退しつつ聖胎長養(しょうたいちょうよう)(悟後の修行)に努め、また戦禍に焼けた南宗(なんしゅう)寺や荒廃した宗鏡寺を再興。1629年(寛永6)大徳寺の強行派を率い幕府の宗教行政に抵抗し流罪となる(紫衣(しえ)事件)。のち将軍徳川家光の帰依(きえ)を受け品川に東海寺を創建。彼が禅僧として必須(ひっす)の後継者育成を断念したことに紫衣事件の影響がうかがえる。柳生(やぎゅう)但馬守(かみ)に書き与えた『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』は剣禅一如(けんぜんいちにょ)の思想を示すものとして著名。
また沢庵の名は沢庵漬けとしても知られているが、彼の郷里で千本漬け、百本漬け、貯(たくわ)え漬けといわれたものを家光に供し、家光によって名づけられたとも伝える。
[船岡 誠 2017年9月19日]
『沢庵和尚全集刊行会編『沢庵和尚全集』全6巻(1928・巧芸社/複製・2001・日本図書センター)』▽『永田豊州著『沢庵』(『講座禅 第4巻』所収・1967/新装版・1974・筑摩書房)』▽『牛込覚心編著『沢庵和尚 心にしみる88話』(2003・国書刊行会)』
江戸前期の臨済宗の僧。沢庵は道号,諱(いみな)は宗彭(そうほう)。但馬国(兵庫県)出石(いずし)の生れ。14歳のとき郷里出石の禅刹宗鏡(すきよう)寺に入って希先西堂(さいどう),ついで大徳寺派の重鎮だった董甫宗仲(とうほそうちゆう)に師事した。この宗仲との結びつきが,権勢に密着した五山禅ではなく,反骨と在野の禅,それに只管弁道(しかんべんどう)を伝統とする大徳寺派の禅僧として,沢庵がその生涯を送る機縁となった。22歳のとき上洛して,大徳寺塔頭(たつちゆう)三玄院の春屋宗園(しゆんおくそうえん)に師事。だが,師の禅風にあきたらなかった沢庵はやがてその会下(えげ)を去り,堺におもむき,大安寺の文西のもとで詩歌,儒学を学んだ。後年の卓越した詩歌,書道や儒教的政治論の基礎はこの時期に形成された。31歳のとき,弟子の養成に秋霜烈日の厳しさで鳴った一凍紹滴(いつとうしようてき)(明堂古鏡禅師)の門を堺の陽春庵にたたき,その会下に転じた。只管弁道すること1年,印可をうけて〈沢庵〉の道号を授かり,一凍の生涯ただ1人の法嗣(はつす)となった。1609年(慶長14)36歳の若さで,勅招により大徳寺住持となったが,わずか3日にして飄然と大徳寺を去った。その後,堺の南宗(なんしゆう)寺,大徳寺の塔頭大仙院に住んだが,20年(元和6)から7年間,権勢の喧噪を避けて,郷里出石の宗鏡寺に隠棲し,読書三昧に入った。だが,27年(寛永4)朝幕関係が一時に緊張した紫衣(しえ)事件が起こり,大徳寺が幕府によって弾圧されたとき,沢庵は毅然として五山禅保護に傾く幕府の政策に抗議し,ために29年出羽の上山(かみのやま)に流された。32年赦免され,その後はかえって将軍家光の帰依をうけた。柳生宗矩のため《不動智神妙録》を書き与え,柳生の剣法の大成にも大きな影響を与えた。晩年,家光の外護(げご)で品川東海寺を開創,73年の生涯をここで閉じた。遺偈(ゆいげ)は〈夢〉の1字。著作の《理気差別論》《太阿記》など,ほとんど《沢庵和尚全集》に収められる。
執筆者:藤井 学
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…江戸初期の臨済僧沢庵宗彭が《少室六門集》のうちの安心法門に加えた注釈書。《六門集》は,古来,禅宗の祖菩提達磨の著書として伝えられ,心経頌,破相論,二種入,安心法門,悟性論,血脈論の六門からなる。…
…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。以上の一連の事件を紫衣事件という。…
…江戸時代初期の禅僧沢庵の著。1巻。…
…干しダイコンをぬか漬にしたもので,略して〈沢庵〉ともいう。語源については,禅僧沢庵の創製になるとか,〈貯え漬(たくわえづけ)〉のなまりであるとかいう説がある。…
…山号は万松山。1638年(寛永15)徳川家光が,帰依の僧沢庵宗彭のために建立した。朱印500石,塔頭(たつちゆう)17ヵ寺を有し,大徳寺派の江戸触頭(ふれがしら)の一つであった。…
…その後,大徳寺派重鎮の禅僧が歴代住持となり,堺町衆の中に大徳寺の禅が浸透する拠点となった。1574年(天正2)松永久秀に焼かれ,1615年(元和1)大坂夏の陣の兵火で焼失,のち沢庵の努力で現寺地に復興。そのため沢庵を当寺中興の祖と仰ぐ。…
…とくに家光には剣技上ばかりでなく,政治上でも意見を具申し信頼を受ける立場となった。一方,禅僧沢庵とも親交があり,柳生新陰流兵法の理論体系の完成に大いに教えを受けた。家光,沢庵,宗矩3者の身分を超えた人間関係は,江戸幕藩体制の完成に大きな力となったといえよう。…
※「沢庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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