沢庵(読み)たくあん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

沢庵
たくあん

[生]天正1(1573).但馬
[没]正保2(1645).江戸
江戸時代初期の臨済宗の僧。諱 (いみな) は宗彭 (そうほう) 。出家後大徳寺の一凍紹滴 (いっとうしょうてき) に侍し,慶長 12 (1607) 年 35歳で大徳寺の第一座に推された。のち郷里の宗鏡寺 (ずぎょうじ) に退いた。元和4 (18) 年江戸幕府は大徳寺,妙心寺に寺院法度を適用して,正隠が大徳寺の住職となると,勅賜の紫衣を剥奪しようとした。沢庵はこれに激しく抗議したために,出羽国上山 (かみのやま) に流された (→紫衣事件 ) 。寛永9 (32) 年赦免となり帰京,将軍徳川家光の帰依を得て,法を説いたり,宮中で講じたりした。同 15年,幕府は,江戸品川に東海寺を建てて,沢庵を開山とした。著に『不動智神妙録』『沢庵法語』『明暗双々集』などがある。

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百科事典マイペディアの解説

沢庵【たくあん】

安土桃山〜江戸初期の禅僧。名は宗彭(そうほう)。但馬(たじま)国の人。大徳(だいとく)寺宗園(そうえん)に参じ,1605年大徳寺首座となり,堺の南宗(なんしゅう)寺に住す。1629年紫衣(しえ)事件で幕府に抗し,出羽上山(かみのやま)に流され,1634年赦免。以後徳川家光の厚遇を受け,1639年品川に東海(とうかい)寺を開く。著書《不動智神妙録》など。
→関連項目以心崇伝永源寺上山[市]沢庵漬宮本武蔵柳生宗矩

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世界大百科事典 第2版の解説

たくあん【沢庵】

1573‐1645(天正1‐正保2)
江戸前期の臨済宗。沢庵は道号,(いみな)は宗彭(そうほう)。但馬国(兵庫県)出石(いずし)の生れ。14歳のとき郷里出石の刹宗鏡(すきよう)寺に入って希先西堂(さいどう),ついで大徳寺派の重鎮だった董甫宗仲(とうほそうちゆう)に師事した。この宗仲との結びつきが,権勢に密着した五山禅ではなく,反骨在野の禅,それに只管弁道(しかんべんどう)を伝統とする大徳寺派の禅僧として,沢庵がその生涯を送る機縁となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

沢庵
たくあん
(1573―1645)

江戸初期の臨済(りんざい)宗の僧。諱(いみな)は宗彭(そうほう)。父は但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)城主山名宗詮(やまなそうせん)(祐豊(すけとよ)。1511―1580)の家臣の秋庭綱典(あきばつなのり)。10歳で出石の浄土宗唱念(しょうねん)寺に入り、その後、東福寺派宗鏡(すきょう)寺塔頭(たっちゅう)勝福寺の希先(きせん)(?―1591)、大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)(1549―1601)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(1529―1611)、大安寺文西(だいあんじもんさい)に従い修行を重ね、春屋の法弟一凍紹滴(いっとうしょうてき)(1539―1612)の印可を受け、37歳で大徳寺153世の住持となった。その後、諸氏の招きを辞退しつつ聖胎長養(しょうたいちょうよう)(悟後の修行)に努め、また戦禍に焼けた南宗(なんしゅう)寺や荒廃した宗鏡寺を再興。1629年(寛永6)大徳寺の強行派を率い幕府の宗教行政に抵抗し流罪となる(紫衣(しえ)事件)。のち将軍徳川家光の帰依(きえ)を受け品川に東海寺を創建。彼が禅僧として必須(ひっす)の後継者育成を断念したことに紫衣事件の影響がうかがえる。柳生(やぎゅう)但馬守(かみ)に書き与えた『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』は剣禅一如(けんぜんいちにょ)の思想を示すものとして著名。

 また沢庵の名は沢庵漬けとしても知られているが、彼の郷里で千本漬け、百本漬け、貯(たくわ)え漬けといわれたものを家光に供し、家光によって名づけられたとも伝える。

[船岡 誠 2017年9月19日]

『沢庵和尚全集刊行会編『沢庵和尚全集』全6巻(1928・巧芸社/複製・2001・日本図書センター)』『永田豊州著『沢庵』(『講座禅 第4巻』所収・1967/新装版・1974・筑摩書房)』『牛込覚心編著『沢庵和尚 心にしみる88話』(2003・国書刊行会)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

たくあん【沢庵】

[1] 江戸初期の臨済宗の僧。諱(いみな)は宗彭(そうほう)。但馬国(兵庫県)の人。堺の陽春寺、和泉の南宗寺などに歴住し、慶長一四年(一六〇九)、三七歳で大徳寺一五三世の住持となったが三日で退院。寺院法度・紫衣法度をめぐって幕府に抗弁し、寛永六年(一六二九)出羽国(山形県)上山(かみのやま)に流されたが、同九年許されて京へ帰った。後水尾上皇、のちに三代将軍家光の帰依をうけ、同一五年には江戸品川に東海寺を開創。その書は茶道で珍重され、「不動智神妙録」など著述も多い。天正元~正保二年(一五七三‐一六四五
[2] 〘名〙 「たくあんづけ(沢庵漬)」の
※洒落本・郭中掃除雑編(1777)「内証では〈略〉たくあんを丸かぶりにするけれど」

たくわん【沢庵】

〘名〙 「たくあん(沢庵)」の変化した語。
※落語・位牌屋(1896)〈三代目柳家小さん〉「茶も沸いてりゃア沢庵(タクワン)の出し立てがある」
[補注]「たくわん」のつく語は、便宜上「たくあん」の項目に挙げた。

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

沢庵
たくあん

1573〜1645
江戸初期の臨済宗の僧
但馬(兵庫県)出石 (いずし) の武士秋庭綱典の子。沢庵は号。幼くして出家し,のち大徳寺住持となった。後水尾天皇の紫衣勅許をめぐり幕府と対立。出羽(山形県)上山 (かみのやま) に配流されたがのちに許され,3代将軍徳川家光に重用された。江戸品川に東海寺を創建

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世界大百科事典内の沢庵の言及

【安心法門】より

…江戸初期の臨済僧沢庵宗彭が《少室六門集》のうちの安心法門に加えた注釈書。《六門集》は,古来,禅宗の祖菩提達磨の著書として伝えられ,心経頌,破相論,二種入,安心法門,悟性論,血脈論の六門からなる。…

【紫衣事件】より

…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。以上の一連の事件を紫衣事件という。…

【太阿記】より

…江戸時代初期の禅僧沢庵の著。1巻。…

【沢庵漬】より

…干しダイコンをぬか漬にしたもので,略して〈沢庵〉ともいう。語源については,禅僧沢庵の創製になるとか,〈貯え漬(たくわえづけ)〉のなまりであるとかいう説がある。…

【東海寺】より

…山号は万松山。1638年(寛永15)徳川家光が,帰依の僧沢庵宗彭のために建立した。朱印500石,塔頭(たつちゆう)17ヵ寺を有し,大徳寺派の江戸触頭(ふれがしら)の一つであった。…

【南宗寺】より

…その後,大徳寺派重鎮の禅僧が歴代住持となり,堺町衆の中に大徳寺の禅が浸透する拠点となった。1574年(天正2)松永久秀に焼かれ,1615年(元和1)大坂夏の陣の兵火で焼失,のち沢庵の努力で現寺地に復興。そのため沢庵を当寺中興の祖と仰ぐ。…

【柳生宗矩】より

…とくに家光には剣技上ばかりでなく,政治上でも意見を具申し信頼を受ける立場となった。一方,禅僧沢庵とも親交があり,柳生新陰流兵法の理論体系の完成に大いに教えを受けた。家光,沢庵,宗矩3者の身分を超えた人間関係は,江戸幕藩体制の完成に大きな力となったといえよう。…

※「沢庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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