烏丸光広(読み)カラスマルミツヒロ

デジタル大辞泉 「烏丸光広」の意味・読み・例文・類語

からすまる‐みつひろ【烏丸光広】

[1579~1638]江戸初期の歌人。公卿。京都の人。和歌を細川幽斎に学ぶ。書にもすぐれ、上代和様の名筆。家集「黄葉和歌集」、歌道書「耳底記にていき」など。

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精選版 日本国語大辞典 「烏丸光広」の意味・読み・例文・類語

からすまる‐みつひろ【烏丸光広】

  1. 江戸初期の公卿、歌人。権大納言。姓藤原。法名泰翁。細川幽斎の門に入って古今伝授を受け、一糸和尚に参禅。歌道、歌学復興に努める。主著耳底記」、家集「黄葉集」など。仮名草子「目覚し草」などの作者ともいわれる。天正七~寛永一五年(一五七九‐一六三八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「烏丸光広」の意味・わかりやすい解説

烏丸光広(からすまみつひろ)
からすまみつひろ
(1579―1638)

近世初期の公卿(くぎょう)で歌人。父は准大臣従(じゅ)一位烏丸光宣(みつのぶ)。烏丸家は藤原氏日野家の分家。3歳で叙爵。侍従、右左少弁、蔵人(くろうど)を経て1599年(慶長4)蔵人頭に補せられる。細川幽斎(ゆうさい)に和歌を学び、1600年22歳のとき、関ヶ原の戦いが起こり、幽斎が丹後(たんご)田辺城で石田三成(みつなり)方の軍に包囲されるや、後陽成(ごようぜい)天皇の勅命を受けて中院通勝(なかのいんみちかつ)、三条西実条(さんじょうにしさねえだ)(1575―1640)とともに開城の勧告に赴く。のち、幽斎より古今伝授を受ける。参議に上ったが、1609年勅勘を被る。1611年赦免され、1612年権中納言(ごんちゅうなごん)、1616年(元和2)権大納言に上る。1620年には正二位に進む。寛永(かんえい)15年7月13日、60歳で没。近世初期の代表的堂上(どうしょう)歌人の一人で、家集に孫の資慶(すけよし)(1622―1669/1670)の編んだ『黄葉(こうよう)和歌集』がある。その一首「身のうさを忘れてむかふ山ざくら花こそ人を世にあらせけれ」。歌風は当時の堂上和歌の主流である二条派の風であるが、一糸和尚(いっしおしょう)に参禅したので禅学の影響があってか高遠で清高な作品がみられる。『十八番職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわせ)』、幽斎の談話を筆録した『耳底記(にていき)』もある。『耳底記』は1598年から1602年にかけての和歌聞き書きで、江戸時代には和歌の学習に広く読まれた。文章も巧みで『あづまの道の記』『春の曙(あけぼの)』などの紀行文がある。書家としても優れ、一派をつくり、水墨画のたしなみもあった。逸話の多い人でもある。

[宗政五十緒]

光広の書画

光広は少年のころ早くも、慣例に従って持明院(じみょういん)書道に入門した。現存する和歌懐紙の端作(はしつくり)の官名によって、16~21歳の執筆と推定されるものがいくつか残っている。これによると、持明院流の影が色濃くとどめられている。ところが光広の書は、壮年期に入るころ光悦流に変貌(へんぼう)している。その動機は不明ながら、1682年(天和2)刊の灰屋紹益(はいやじょうえき)の『にぎはひ草』によれば、「からす丸光広卿(きょう)は、光悦に物書事(ものかくこと)をならひ物し給ひける」と書かれているので、光悦の手ほどきを受けたことが知られる。やがて彼は、角倉素庵(すみのくらそあん)と並んで光悦流屈指の名手となった。いま一群として残る光広の筆跡によってもそれがうなずける。ところが、光広は40代なかばのころ、一時期、定家(ていか)流の書をかいている。が、40代の終わりから50代にかけて、光悦流を踏まえながら、不羈奔放(ふきほんぽう)な性格を反映させて、独自の境地を開いた。まさに光広流ともいうべき新書風の誕生で、これは他の模倣も追随も許すものではなく、まったく光広のひとり舞台であった。軽妙な水墨画にも巧みで、山水、富士山、達磨(だるま)などの作品を残している。これらには三角篆書(てんしょ)〈光広〉の墨印を捺(お)している。

[小松茂美]

『小松茂美編『烏丸光広』(1982・小学館)』



烏丸光広(からすまるみつひろ)
からすまるみつひろ

烏丸光広

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改訂新版 世界大百科事典 「烏丸光広」の意味・わかりやすい解説

烏丸光広 (からすまるみつひろ)
生没年:1579-1638(天正7-寛永15)

江戸初期の公卿,歌人。准大臣光宣の子。和歌を細川幽斎に師事し,歌論書として著名な《耳底記(にていき)》は若年の光広の歌道精進の次第をもよく現している。1609年(慶長14)参議・左大弁のとき猪熊(いのくま)事件を起こし勅勘を被り,11年勅免・還任されるまで不遇をかこったが,12年に権中納言,16年(元和2)には権大納言に昇った。早くから幕府の恩顧を深く受け,ことに中年以降はことあるごとに江戸に下向し,晩年の37年(寛永14)には将軍徳川家光より江戸在府のための邸まで拝受した。師の一糸文守から,権勢を頼り遠く皇畿を離れるは〈非是人臣之善〉との非難を受けたほどであり,宮廷人としては典型的な俗物ともいえようが,その自由闊達な人となりが,朝幕間や文化面で果たした役割は高く評価されよう。多才多能で,能書家でもあった。著述が多く,歌集《黄葉和歌集》,紀行文《日光山紀行》《あづまの道の記》《春の曙》,仮名草子《目覚草(めざましぐさ)》などがある。
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百科事典マイペディア 「烏丸光広」の意味・わかりやすい解説

烏丸光広【からすまるみつひろ】

江戸初期の公卿,歌人,仮名草子作者。権大納言正二位。奔放な性格で逸話が多い。和歌を細川幽斎に学び,書は上代様を基礎とし,本阿弥光悦の影響を受け,全体の流れの美に重点を置く。その他多能多芸で知られる。仮名草子の作品もあるが,《竹斎》《仁勢物語》などの作者とするのは誤伝。家集に《黄葉和歌集》,歌論集に《耳底記》がある。
→関連項目後水尾天皇俵屋宗達

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「烏丸光広」の意味・わかりやすい解説

烏丸光広
からすまるみつひろ

[生]天正7(1579).京都
[没]寛永15(1638).7.13. 京都
安土桃山時代~江戸時代初期の歌人,書家。号,烏有子 (うゆうし) 。従一位光宣の子。宮廷人としての官職を歴任,晩年は権大納言正二位まで昇進。和歌は細川幽斎に師事,古今伝授を受けた。狂歌,俳諧,書画を好み,特に書にすぐれる。書は初め青蓮院流を習い,のち 30代から 40代なかば頃定家流を,40代後半より光悦流を学び,晩年に独自の書風を完成した。俵屋宗達と交友し,宗達の『蔦細道図屏風』などに賛や奥書を記す。著書は歌文集『黄葉和歌集』 (1636) ,歌論書『耳底記』 (02?) ,仮名草子『目覚草』 (25跋,49刊) など。『仁勢物語 (にせものがたり) 』もその作かと伝える。

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朝日日本歴史人物事典 「烏丸光広」の解説

烏丸光広

没年:寛永15.7.13(1638.8.22)
生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議,同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが,運よく無罪となり,同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言,元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め,歌集に『黄葉和歌集』があるほか,俵屋宗達,本阿弥光悦などの文化人や徳川家康,家光と交流があり,江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ,のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』

(伊東正子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「烏丸光広」の解説

烏丸光広 からすまる-みつひろ

1579-1638 江戸時代前期の公卿(くぎょう),歌人。
天正(てんしょう)7年生まれ。烏丸光宣(みつのぶ)の子。慶長11年(1606)参議となる。14年女官との遊興事件に連座して官職をうばわれたが翌々年旧に復した。のち正二位,権(ごんの)大納言。和歌を細川幽斎にまなんで二条派歌人として活躍。書家としても知られる。寛永15年7月13日死去。60歳。歌集に「黄葉和歌集」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「烏丸光広」の解説

烏丸光広
からすまるみつひろ

1579〜1638
江戸初期の歌人・公家
権大納言に昇進。細川幽斎に歌を学び,歌学の古今伝授をうけた一人で,超俗的な歌風を示し,家集『黄葉和歌集』がある。また能書家としても知られた。

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367日誕生日大事典 「烏丸光広」の解説

烏丸光広 (からすまるみつひろ)

生年月日:1579年4月27日
安土桃山時代;江戸時代前期の歌人;公家
1638年没

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世界大百科事典(旧版)内の烏丸光広の言及

【猪熊事件】より

…江戸初期,宮廷で起きた猪熊教利らの密通事件。1607年(慶長12)2月,左少弁猪熊教利が官女との密通により勅勘を受けて出奔し,ついで09年7月には参議烏丸光広以下大炊御門頼国,花山院忠長,飛鳥井雅賢,難波宗勝,徳大寺宗久,松木宗信らの若公家衆が前年来典侍広橋氏など5人と遊興にふけり,密通していたことが発覚した。後陽成天皇は激怒し,彼らを極刑に処すべく,その意向を幕府に伝えた。…

【恨の介】より

…寛永,明暦,寛文期の異版もある。慶長11年5月旗本松平近正の次男近次(ちかつぐ)が好色無頼の罪で改易され,蟄死(ちつし)した事件や,同14年の烏丸光広ら公家と宮女との密通事件などをモデルにしたとされる。御伽草子的な悲恋物語であるが,関白豊臣秀次の悲劇,お国歌舞伎,三味線,隆達(りゆうたつ)小歌など当時の事件・風俗が織りこまれている。…

【俵屋宗達】より

…すなわち弟子を使って工房制作を行い,俵屋絵として売り出したのである。出自を生かして千少庵,烏丸光広本阿弥光悦など当時一流の文化人,公卿と親交を結んだことが,その画風形成上にすぐれた影響をもたらした。特に光悦との協力関係は重要で,光悦が版行した嵯峨本において,木版雲母摺(きらずり)下絵の意匠を担当したのは宗達であった。…

【耳底記】より

…歌論書。幽斎細川藤孝の口述を烏丸光広が筆記した書。〈じていき〉ともいう。…

※「烏丸光広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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