朝日日本歴史人物事典 「曾我祐準」の解説
曾我祐準
生年:天保14.12.25(1844.2.13)
明治大正期の陸軍軍人,政治家。柳川藩(福岡県)藩士曾我祐興と民子の次男。藩校伝習館へ通うかたわら,十時無事に師事して西洋砲術を学び,長崎へ砲術伝習生として遊学。慶応2(1866)年からイギリス商人グラヴァーの助けを借りて海外へ密航,航海術を学びながら上海,香港,シンガポールを回り帰国した。当初海軍志望であり,明治1(1868)年海軍御用掛として新政府に出仕したが,海軍参謀として従軍した五稜郭(函館市)攻略戦で功績を挙げ,明治6年陸軍少将。その後兵学頭,陸軍士官学校長などを歴任,西南戦争(1877)には第4旅団長を務めた。14年谷干城,三浦梧楼,鳥尾小弥太と連名で上奏文を提出,元老院中に国憲創立議会を開設し,府県会議員の一部を加えて速やかに国の憲法を制定すべきだと訴えて,軍人が政治に関与することの是非をめぐり政界に波紋を呼んだ。15年参謀次長へ進み,陸軍拡張計画を推進し,翌年中将に進む。17年子爵に叙せられる。三浦梧楼らと共に月曜会の中心メンバーとなったが,山県有朋ら陸軍の薩長閥主流派と対立,19年休職に追い込まれた。その後軍籍を離れて東宮大夫,宮中顧問官など宮廷の人に転じた。24年子爵互選で貴族院議員に当選,土曜会の中心人物として政界内に隠然とした勢力を持ち,シーメンス事件(1914)では予算委員長として第1次山本権兵衛内閣打倒に参画した。31年日本鉄道会社社長。
(山崎有恒)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報