有明町(読み)ありあけちよう

日本歴史地名大系 「有明町」の解説

有明町
ありあけちよう

面積:九八・〇五平方キロ

大隅半島南東部、曾於郡南東部に位置する。東は志布志しぶし町・松山まつやま町、西は大崎おおさき町、北は大隅町に接し、南東は志布志湾に面する。砂丘が発達した沿岸部は日南海岸国定公園に含まれている。北部にきり(四〇八・三メートル)、中央部に岳野たけの(二七四・三メートル)がそびえているが、町の大部分は標高一二〇―三〇〇メートルのシラス台地に覆われている。シラス台地は町中央を南東へ流れる菱田ひしだ川、東部の安楽あんらく川支流本村ほんむら川・高下谷こうげだに川、西部を南流する田原たばる川によって浸食され、菱田川流域には河岸段丘が広がっている。

遺跡は町内のほぼ全域に分布している。縄文時代の遺跡では、伊崎田いさきだやまくち遺跡で早期から晩期の遺物が出土し、長期間存続した遺跡である。伊崎田のまつ遺跡・野井倉の仮屋のいくらのかりやB遺跡では早期や晩期、伊崎田の菖蒲田しようぶでん遺跡では早期の、仮屋A遺跡では早期・後期の土器が出土した。また伊崎田の札元ふだもと遺跡は後期の、伊崎田の山原やんばる遺跡は晩期の遺跡である。


有明町
ありあけちよう

面積:二三・四八平方キロ

島原半島の北東部に位置し、南東は島原市、西部は国見くにみ町に接する。町域の南部に雲仙うんぜん山系のまい(七〇三メートル)があり、北東の有明海(島原湾)に向かって緩やかな火山性扇状地を形成している。国見町境の栗谷くりや川をはじめ、湯江ゆえ川・小原おばる川・金洗かなあらい川などが流れる。海岸部を島原鉄道が通り、それに並行して国道二五一号が通るほか、南側の山麓部に主要地方道の愛野あいの―島原線(開拓道路)などがある。南部は雲仙天草うんぜんあまくさ国立公園の指定域内。

縄文時代後期の大野原おおのばる遺跡や、一野ひとの戸田名とだみようなどの弥生時代の遺跡では多数の甕棺が出土している。現存する古墳時代の高塚古墳湯江平山ゆえひらやま古墳のみで、雲仙山系から延びる舌状台地には横穴古墳が湯江に五ヵ所、大三東おおみさきに四ヵ所ある。律令制下では高来たかく郡に属していたが、町域に「和名抄」に記される高来郡のいずれの郷が置かれていたかは明らかではない。八世紀の炉跡状遺構が検出された大野原七反畑おおのばるななたんばた遺跡は官衙との関連が指摘されている。


有明町
ありあけまち

面積:六〇・三〇平方キロ

かみ島の北部に位置し、北西に長崎県島原半島の雲仙岳を眺望して有明海に臨む。東は松島まつしま町、南西は本渡ほんど市、南はおい(五八六メートル)山系を境界として栖本すもと町に接し、東西に細長い地形をなす。中世上津浦氏が割拠し、キリシタン全盛期には南蛮なんばん寺が建てられた。寛永一四年(一六三七)の天草・島原の乱時、天草における初戦が展開され、乱後、移民によって各村を再建した。明治末期島子しまご往還は県道大浦おおうら線となり、その後本渡市に通じる国道三二四号となった。


有明町
ありあけちよう

面積:三一・三〇平方キロ

杵島山の南、通称ささ山の東麓に広がり、南は有明海に面している。山麓地域を除く平野部は海退と干拓による開拓地である。

明治二二年(一八八九)町村制施行により成立した村のうち錦江にしきえ村と竜王りゆうおう村が昭和三〇年(一九五五)四月合併して有明村となる。同年九月南有明村を加え、一一月大字深浦ふかうらの一部を藤津郡久間くま村へ分離、同三一年大字横手よこてを白石町へ分離、同三七年町制をしいて有明町となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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