日本歴史地名大系 「有智子内親王墓」の解説
有智子内親王墓
うちしないしんのうのはか
「続日本後紀」承和一四年(八四七)一〇月二六日条に「二品有智子内親王薨、遺言薄葬、兼不受
葬使
、内親王者、先
誕育
也、頗渉
史漢
、兼善属
文、元為
賀茂斎院
、(中略)性貞潔、居
于嵯峨西庄
、薨時春秋四十一」とあり、嵯峨天皇第二皇女で母は交野女王。弘仁元年(八一〇)、賀茂社の初代斎王(斎院)となる。天長八年(八三一)退下して後、この地に閑居した。内親王は学問を好み、詩文に優れ、弘仁一四年二月、嵯峨天皇が斎院の花宴に行幸した時、一七歳の若さで「寂々幽荘水樹裏、仙輿一降一池塘」に始まる七言律の詩を作った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報