望陀郡(読み)もうだぐん

日本歴史地名大系 「望陀郡」の解説

望陀郡
もうだぐん

上総国の西部に置かれた古代以来の郡。北西は江戸湾に臨み、南西は周淮すえ郡、北東は海上うなかみ郡、南東部は夷隅いすみ郡に接し、南は安房国長狭ながさ郡。郡名は古くは望とも書き、また郡名ではないが望多の表記もある。「万葉集」巻一四に宇麻具多、「和名抄」東急本などでは末宇太の訓を付し、同書名博本や「延喜式」民部省および「拾芥抄」ではマウタと訓じている。「寛政重修諸家譜」には「まうだ」とある。小櫃おびつ川が流れ、江戸時代の郡域は現袖ケ浦市・木更津市・君津市にわたり、また一部安房郡天津小湊あまつこみなと町に及んでいた。

〔古代〕

「国造本紀」「古事記」に馬来田国造がみえ、小櫃川の下流域を支配領域としていたとされている。ウマクタまたはマクタよりマウタへの転訛を含め、その領域が当郡の成立に影響があったことは明らかであろう。下流域では、弥生時代後期以降、飛躍的に集落数が増加し、木更津市請西じようざい遺跡群、袖ケ浦市下新田しもにつた遺跡群などのように多数の方形周溝墓が営まれる。三世紀後半、これらの方形周溝墓群の被葬者層を統合するようなかたちで木更津市高部たかべ三二号墳、袖ケ浦市たき口向台くちむこうだい八号墳などの前方後方墳が拠点的に出現し、四世紀にはさらに広域を統合する首長の墳墓として木更津市手古塚てこづか古墳、袖ケ浦市坂戸神社さかどじんじや古墳といった前方後円墳が出現する。中流域では弥生後期の様相が今のところ未詳ながら、四世紀代には君津市飯籠塚いごづか古墳・白山神社はくさんじんじや古墳など墳丘長一〇〇メートル級の前方後円墳が相次いで造営され、下流域の勢力を凌ぐ政治領域が形成されていたと考えられる。このように、前期には分立的な政治領域を形成していたかにみえる下流域と中・上流域が統合され、古代馬来田うまくた国の原形ができたのは五世紀前半代とみられ、河口沖積地に造営された木更津市の五世紀中葉の銚子塚ちようしづか古墳は小櫃川水系全域に君臨する最初の首長墓と目される。以後六世紀末に至るまで、同市域の祇園大塚山ぎおんおおつかやま古墳・稲荷森いなりもり古墳・金鈴塚きんれいづか古墳など流域の盟主墳は、途中空白期を挟みながらも一貫して河口沖積地に造営され、歴代馬来田国造の墓域に比定される木更津市祇園長須賀ぎおんながすか古墳群を形成した。この古墳群内から出土する副葬品には質量ともに優れたものがあり、海上交通による畿内からの文物の受容、地方首長としての政治・経済基盤の安定と繁栄がうかがわれる。

一方、前期に大型首長墓の築かれた中流域では、流域を統轄する国造級首長の傘下にありながらも、中期―後期を通じて一定の優位性を保持する豪族の系譜が存続したらしく、君津市戸崎とざき古墳群にみられる中規模前方後円墳の群在がそのことを示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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