木住村
こずみむら
[現在地名]日吉町字木住
明治九年(一八七六)上木住村と下木住村が合併して成立した村。二村とも園部藩領。ほぼ西流してきた木住川が、南西に流れを変える辺りから大堰川に流れ込むまでに位置する。南は中村、北は下稗生村(生畑村)。
近世初頭の訴訟文書(湯浅文書)に世木庄の一村として木住村の名がみえる。上流側の上木住村は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳では一〇四石余、天保郷帳では一三五石余。幕末の家数一九、人口七六(「口丹波風土記」所引園部藩記録)。
木住村
きずみむら
[現在地名]能都町山田
山田川右岸に位置し、下流は山口村。天正一五年(一五八七)五月二〇日の前年分の年貢算用状(能登国古文書)に「諸橋山田之内きすミ村」とみえ、高一五三俵余、うち荒一九俵余。同一七年九月一三日の前年分の年貢皆済状(同文書)に木炭村とある。正保郷帳では高一〇一石余、田方四町二反余・畑方二町六反余、新田高四二石余。承応三年(一六五四)の村御印の高一四四石余、免四ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一六五石、免五ツ、小物成は山役一〇二匁・炭竈役一三匁(三箇国高物成帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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