山田村(読み)やまだむら

日本歴史地名大系 「山田村」の解説

山田村
やまだむら

[現在地名]川内市永利町ながとしちよう

平佐ひらさ郷平佐村の東、西流する平佐川上流域にある。南西は百次ももつぎ郷百次村。南方に日笠ひがさ山がある。久安三年(一一四七)二月九日の薩摩入来院弁済使別当伴信房解状(入来院文書)に「薩摩郡内山田村」とみえ、信房は同村地頭に任ずる下文の旨に任せて重ねて外題安堵を庄政所に申請し、安堵を受けている。同村は信房相伝の所領で信房から子信明に譲られたが、信房の代に薩摩国住人阿多忠景の弟忠永により押領され、さらに薩摩郡弁済使字仁六郎大夫兼宗により押領された。このため寿永二年(一一八三)八月八日信明はこれを訴え、認められている(「島津庄別当伴信明解状」同文書)。その後山田村名頭職(地頭職)は信明の娘である大蔵種章妻へと譲られ(文治三年七月「大蔵種章解状」同文書)、大蔵種信を経てその娘である源宗久妻へと伝えられた(建保五年八月「源宗久愁状」同文書)。この間にも冨山四郎大夫則宗・弁済使惟宗友久による押領があり、建保五年(一二一七)九月二六日宗久の訴えに基づき宗久に山田村名頭職が安堵された(「島津庄政所施行状」同文書)。しかし友久の狼藉は止まなかったらしく、宗久の妻は鎌倉幕府に訴え、一〇月二七日には島津庄地頭島津忠久に友久の狼藉の子細を尋ねるよう幕府から命じられ(「北条義時書状案」島津家文書)、一一月二六日には忠久から山田村名頭職を宗久妻に引渡すべき旨が薩摩方地頭代に命じられた(「島津忠久安堵状」同文書)。だが貞応二年(一二二三)九月二九日、承久二年(一二二〇)正月に友久が得た関東下文と同年七月の友久譲状に基づき、友久の子惟宗友成に山田村領主職が安堵された(「北条義時下知状」備忘録抄)。これ以後山田村は惟宗氏の領有に帰したとみられる。

元応二年(一三二〇)田崎たさき名の下地をめぐって同名主と訴訟となっていた永利如性はさらに山田村との境をめぐって地頭島津氏を訴えている(同年九月二日「本田暁道請文」入来院文書)。如性は元亨二年(一三二二)には山田村山口新開田畠在家等をめぐり地頭島津氏と争っていた(同年八月二二日「薩摩守護島津貞久請文」同文書)。永利氏は永利名の名を姓とし、本姓惟宗であったとも考えられる。


山田村
やまだむら

[現在地名]吾妻町牛口名うしぐちみよう馬場名ばばみよう栗林名くりばやしみよう布江名ぬのえみよう川床名かわとこみよう永中名えいちゆうみよう阿母名あぼみよう

現吾妻町域の南西部を占め、北西は海に臨む。山田川・田内たない川河口近くの平野部、すなわち古代の山田郷に比定される地に山田・守山もりやま条里(二つの条里とする説もある)があり、N五〇度Wの方位に東西に二〇坪、南北に八坪ほどが確認されているが、数詞坪地名はおお(牛口名)があるくらいで、坪並は復原できない。その西の阿母名の宇治うじたにに中世の板碑型塔婆や五輪塔があり、大隈おおぐま城の跡がみられる。栗林名に弘法原こうぼうばる遺跡があるほか、山田氏が拠点とした山田城の跡や、戦国期の逆修石塔がある。永中名に尾後おご城跡がある。一五八九年(天正一七年)一一月イエズス会のコエリヨ神父がヤマダを訪れ、仏僧と交渉するとともに、五、六人の修道士を集めて布教にあたり、四八〇人に授洗したという(フロイス「日本史」)

江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「山田」とみえ、高二千五九〇石余。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば、長崎平戸ひらど町の三五郎は「高久之内山田村」の生れで、元和五年(一六一九)長崎今大工いまだいく町に来住している。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に山田村として高一千四八五石余、山田内として川床村二三九石余・牛口村二二四石余・馬場村三五五石余・布江村三〇九石余・阿母村三五六石余が記される。寛文四年(一六六四)の高力高長領知目録(寛文朱印留)でも村名が記される。

宝永四年(一七〇七)検地と記す島原領内村明細帳によれば、島原まで陸路で六里一一町、村内は川床・牛口・布郷(布江)・永中・栗林・馬場・阿母の七名に分れ、田一千二一九石余・一七八町二反余(うち両毛作一一五町余)、石盛は上々田が一〇で、上田九ツ五分・中上田九ツ・中田八ツ・下田七ツ・下々田五ツ五分、さらに三下田が四ツ五分、四下田が三ツ。


山田村
やまだむら

[現在地名]山田町山田

現山田町を東流する丸谷まるたに(是井川内川)北岸の村。対岸は中霧島なかきりしま村、北に長尾ながお(四二六・五メートル)がそびえる。村内を山田川が南東流し、村の南東端で丸谷川に合流する。江戸時代は鹿児島藩都城島津家領で都城五口六外城の一つ山田郷に所属。「三州御治世要覧」に「山田村、古ハ上中原村、高原郷之内梶原村、中郷之内一ケ村ニナル」と注記され、表高を記した郷帳類などには上中原かみなかはら村・梶原かじわら村がみえる。「日向地誌」は山田村について「本村元小郷名ナリ」と記し、元禄一五年(一七〇二)頃は黒池・牧野まきの是井じい小牟礼こむれ下椎屋しもしいや山菅やますげ・梶原・上中原・瀬戸口せとのくちの九ヵ村が分立していたが、のちこれらの小村が合わさって山田村が成立したとする。これらの小村のうち、地内に小字として牧野・瀬戸ノ口・下椎屋・山菅・梶原などが残る。小牟礼については、貞治四年(一三六五)閏九月二六日の北郷北方相分注文(樺山文書)宮丸みやまる(現都城市)などのほかに請分として「小牟礼五百文」がみえる。地内には山下やました牛谷うしたにの小字も残る。応永一六年(一四〇九)三月二三日の息長為幸質券状(同文書)によれば、為幸は「北郷之内一所山下」および布別府ぬのびよう(現三股町)を二六貫文・一九石で三年を限り本物返しで質入れしている。これによると山下の地は島津庄ほん郷内にあった。一方、年未詳の北郷家家譜写(北郷文書)には、天文一一年(一五四二)四月二三日に北郷氏が北原氏領の木野きの・牛谷の麦作を散らし、以後志和池しわち(現都城市)をめぐって合戦となり、八月二日には北郷忠相が木野・牛谷、楠牟礼くすむれ(現都城市)の作毛を刈取ったことが記される。


山田村
やまだむら

[現在地名]生月町山田免やまだめん南免みなみめん舘浦たちうら

生月村の南部に位置し、北を除く三方が海に臨む。正和しようわ(正田)日草ひくさ・山田の三地区からなり、南東部に漁業集落の舘浦がある。嘉慶二年(一三八八)六月一日の下松浦住人等一揆契諾状案(青方文書)に「生月山田彦犬丸代兵庫允義本」とみえ、当地を拠点とする者が一揆に加わっている。山田免墓地に五輪塔(安山岩質凝灰岩製)が二基分ある。修善しゆぜん寺跡に五輪塔が九基分(安山岩質凝灰岩製八基・花崗岩製一基)、宝篋印塔(安山岩質凝灰岩製)が一基分あり、一四世紀後半から一五世紀前半にかけて畿内で製作されたものという。一五六六年(永禄九年)初め平戸城下からコスタ神父とフェルナンデス修道士が生月島の村という生月・一部いちぶ堺目さかいめおよびヤマダIamadaなどに赴いて信徒の告解を聴いたという(同年三月三日「ゴンサルベス書簡」イエズス会士日本通信)。一五八七年(天正一五年)バテレン追放令の頃、ヤマダの教会は藁葺で、同年八月豊後からコレジオ(神学院)・ノビシアド(修練院)が移されてきた(フロイス「日本史」)

慶長四年(一五九九)平戸松浦家を継いだ鎮信は籠手田氏・一部氏の家臣らを立退かせ、新たに山田村に井上右馬允を配しているが(同一九年「松浦信正分限帖」生月史稿)、そこは兵士と農民からなる村であるという(一六〇九年「イエズス会日本年報」)。井上氏の墓地とされる宝篋印塔群がある。籠手田氏の重臣で山田奉行であったというガスパル西玄可が慶長一四年黒瀬の辻くろせのつじ(黒瀬はクルスの転訛という)でその家族とともに処刑されたという(一六一〇年「セルケイラ司教報告」)


山田村
やまだむら

[現在地名]岡垣町鍋田なべた一―二丁目・旭台あさひだい一―二丁目・同四―五丁目・旭南あさひみなみ東松原ひがしまつばら一―三丁目・百合ゆりおか一―二丁目・山田峠やまだとうげ一―二丁目・山田・中央台ちゆうおうだい一―四丁目・東山田ひがしやまだ一―二丁目・東高陽ひがしこうよう一―三丁目・南高陽みなみこうよう高陽台こうようだい一―三丁目・海老津駅前えびつえきまえなど

黒山くろやま村の南、矢矧やはぎ川上流域の丘陵性山地に位置し、唐津街道が通る。南東は戸切とぎり村、南西は海老津えびつ村、西は野間のま村。集落は本村と茅原かやはるの二ヵ所(続風土記拾遺)、「地理全誌」では恋田こいのた(恋ノ田)も加わる。中世には遠賀庄のうちで、山田郷とよばれた。永禄三年(一五六〇)二月一六日、瓜生益定は山田郷惣田数注文(宗像大社所蔵文書/宗像大社文書一)を作成し宗像氏に提出している。同注文によると、「遠賀庄山田郷」は惣田数七一町二段小で、うち一六町九段半が寺社領、三町六段六〇歩が益定の給分で、残る五〇町六段大が「御公田」であった。宗像氏貞は同年四月一五日に山田郷内代官職を益定に預けている(「宗像氏貞預ケ状写」瓜生文書/宗像市史 史料編二)


山田村
やまだむら

[現在地名]湯沢市山田

雄物川の横手盆地への谷口にあたり、雄物川の西に南北に長く発達した村。北は赤袴あかはかま村(現雄勝おがち郡羽後町)、深堀ふかぼり村、東は雄物川を隔てて湯沢町・関口せきぐち村、南は逆巻さかまき村、西は山越えに石塚いしづか村・松岡まつおか村に接する。

「語伝仙北之次第」によれば、天正一〇年(一五八二)由利衆が小野寺氏を大沢おおさわ(現平鹿ひらか郡雄物川町)に攻めた時、山田村の地侍が小野寺氏とともに出陣している。しかし同一八年には最上氏の支配を受けた。土貢万事可有自由地之覚(色部文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、また同時期と推定される「御年貢取り立て等その日記共の写」(色部文書)にも「山田領」とあって、最上氏支配下では、一独立領主扱いを受けていた。文禄四年(一五九五)に最上勢が湯沢城を攻めた折には「夫ヨリ春道(関口ノ城主佐々木喜助春道)カ計ラヒトシテ、西馬音内肥前守茂道、山田民部少輔高道、柳田治兵衛尉、松岡越前守、深堀左馬ノ五人心替シテ最上ニ組ス」(奥羽永慶軍記)と、小野寺氏との関係を断ち切っている。


山田村
やまだむら

[現在地名]太子町山田

春日かすが村の南にあり、東は大和国。飛鳥あすか川・太井たい川の上流域で、東へ高くなる丘陵地に位置する。東部の二上にじよう山南麓に岩屋いわや峠、その南側の万歳まんざい山を挟んで竹内たけのうち峠があり、竹内街道が通る。竹内街道から岩屋峠への道が分れ、同街道の飛鳥川架橋として餅屋もちや橋・六枚ろくまい橋があった(太子町誌)。字地の東条ひがんじよう大道だいどうは「河内志」の「山田属邑二」にあたるという。竹内峠付近を水源とする飛鳥川は石川の支流で、二上山南西麓をほぼ北西流し、山田・春日から飛鳥村(現羽曳野市)を流れ石川に合流する。「万葉集」巻一〇に「明日香河黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらむ」とみえる。古代には蘇我倉山田石川麻呂および石川朝臣一族の本拠地といわれ、石川麻呂の墓と伝える仏陀寺ぶつだじ古墳がある。「元亨釈書」禅林ぜんりん(現奈良県北葛城郡當麻町の当麻寺)の項に「初号万法蔵院、在(ママ)州山田郷」とみえるが、二上山南西麓の科長しなが神社の東に奈良時代から平安時代にかけての寺院跡があり、軒丸瓦・平瓦片などが出土、万法蔵まんぽうぞう院跡といわれる。同寺は聖徳太子の弟麻呂子親王の開基で万法蔵院禅林寺と号し、当麻たいま寺の前身で、親王の孫当麻国見が現在地に移したと伝える。

南北朝時代には南朝方の本拠に近い当地一帯は度々合戦場となった。


山田村
やまだむら

[現在地名]秩父市山田

北流する横瀬よこぜ川を挟んで大宮郷・大野原おおのはら村の東に位置し、北は横瀬川支流の定峰さだみね川を境に栃谷とちや村など、南は横瀬村(現横瀬町)など。横瀬川流域の平地に集落が発達し、秩父巡礼道が村内札所三ヵ寺を通る。東方は小山の連なる山地で、山間の渓流には朝日あさひ滝・夕日ゆうひ滝などの瀑布がかかる。丹党系図(諸家系図纂)によると丹党一族七郎丹二郎基政の子政広が山田七郎、政広の弟政成が山田八郎を名乗っている。「風土記稿」によると、八郎政成は当地に住し、子孫代々も居住してその旧跡が残っているという。地内には恒持つねもち明神社(現恒持神社)があり、元亨四年(一三二四)一一月の中村次郎左衛門尉申状案(秩父神社文書)にみえる「恒用」郷は当地か。現荒川村法雲ほううん寺蔵の天文二四年(一五五五)三月一八日銘の納札に「武州(秩)父山田村住関口大学助」とみえ、当地の大学助ほか同道三〇余名が同寺に札所巡礼の木札を納めている。元亀三年(一五七二)三月五日、北条氏邦は朝見伊賀守に横瀬の地を宛行っているが、伊賀守が宛行われた地の北は「横瀬山田村境」を限りとしていた(「北条氏邦印判状写」加藤文書)


山田村
やまだむら

[現在地名]萩市大字山田 東木間ひがしごま・西木間・北木間・山田・玉江たまえの全域、および大字山田 倉江くらえ小原おばら玉江浦たまえうらの大部分

橋本はしもと川を隔てて萩城下の西にあり、北は日本海に面し、南は美祢みねあか(現美東町)に接する。村域は南北に長く、大部分が山地で、赤村境にくじらヶ岳、東の明木あきらぎ(現阿武郡旭村)境に大藤山、西の三隅みすみ(現大津郡三隅町)境に扇山などの山がそびえる。集落は村内北部を北流して橋本川に注ぐ玉江川や南部分を南流する木間こま川とこれらの支流域に散在する。村内の北寄りをほぼ東西に赤間関あかまがせき街道(北浦道筋)が通る。当島宰判所属。

村名の由来を「注進案」は「往古平家之御領地にて三位一郷之由、山相僅之田地只今之山田組之所に有之、農業仕人家とても無御座、真に山相之田と申事より発り山田と相唱来」と記す。また「里伝に云、山田村は古しへは三見上村と云ひしとぞ、さるは佐々木四郎阿武郡に四歩を十八郷に分ち、三見郷を二タ村にわけて上村下村と云ふよし、慶長の比までも猶しか唱へ来れり」とし、「三見上村」とよばれたとする。


山田村
やまだむら

面積:四〇・九二平方キロ

郡の北西部、井田いだ川支流の山田川の流域に立地し、西は砺波となみ市・東礪波ひがしとなみ庄川しようがわ町、西から南にかけては同郡利賀とが村、東は八尾やつお町、北は婦中ふちゆう町と接する。村域は南北に細長く、その中央を山田川がほぼ北流する。山田川左岸には標高九八七・一メートルのうし岳、右岸には標高八〇七・五メートルの御鷹おたか山があり、両山はしだいに標高を減じながら北へ丘陵地帯を形成し、富山平野へ至る。大部分の集落と耕地は山田川両岸の丘陵地に点在しているが、村西端を流れる和田わだ川沿いと、東端近くを流れる赤江あかえ川付近にも集落が形成されている。山田川と並行して主要地方道婦中―庄川線が、この道から分岐して村中央より東へ県道―八尾線、西へ県道山田―湯谷ゆだに線が通る。総面積の七三パーセント余が森林で、自然林も多く、湯地区のウラジロガシ林、鍋谷なべたに地区のアカシデ林はその代表的なものである。


山田村
やまだむら

[現在地名]鹿児島市山田町・中山町ちゆうざんちよう皇徳寺台こうとくじだい一―四丁目・ほしみね一―二丁目・同四―五丁目

永田ながた(上流は柏原川と称する)流域に位置し、南東はなか村、西は別府べつぷ村、北は田上たがみ村。建治二年(一二七六)九月一三日の山田忠真譲状(山田文書)谷山たにやま郡のうち「やまたのむら」とみえる。天正一六年(一五八八)頴娃久音が当村に三〇町を与えられ移された(本藩人物誌・本藩地理拾遺集)。文禄四年(一五九五)六月二九日の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)に島津義弘蔵入分として谷山郡「中村山田村」三千八九三石余がみえる。慶長四年(一五九九)七月二八日、当村のうち田中之たなかの門・名古屋敷なごやしき一ヵ所の高四一石余、壱町田屋敷二ヵ所の高二八石余が光徳こうとく(皇徳寺)に寄進された(「島津忠長署判知行目録」旧記雑録)


山田村
やまたむら

[現在地名]港北区東山田ひがしやまた町・南山田みなみやまた町・北山田きたやまた町・すみれがおか

都筑つづき郡に属し、北は橘樹たちばな上野川かみのがわ村・下野川しものがわ村・有間ありま(現川崎市宮前区)、東は同郡久末ひさすえ(現川崎市高津区)高田たかた村、南は大棚おおたな村・高田村、西は牛久保うしくぼ村に接する。東に長瀬ながせ山、北に太子堂たいしどう山・諏訪すわ山・権現ごんげん山があり、南に平坦地が広がる。南に早淵はやぶち川が流れる。溜井が字南堀なんぼりと字下根しもねの二ヵ所にある。中原なかはら道が南を通る。小田原衆所領役帳に曾根外記「六拾弐貫文 小机山田郷」とある。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)に「都筑こつくへ之庄内」の一ヵ所に「山田」とみえる。

近世の初めは幕府直轄領と旗本荻原二氏・志村・河野・中村・山本・窪田・石坂・山本領の一〇給。


山田村
やまだむら

[現在地名]大原町山田

新田野につたの村の南に位置し、村内を山田川が流れ、東端で落合おちあい川に合流。東部を大多喜おおたき城下(現大多喜町)御宿おんじゆく海岸(現御宿町)を結ぶ道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千九八〇石。慶長五年(一六〇〇)の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)に山田郷とみえ、高二千五八石余。寛文四年(一六六四)当時は武蔵国岩槻藩領(寛文朱印留)。同一一年より大多喜藩領(貞享元年「阿部正春領知目録」阿部家文書)。延宝八年(一六八〇)の検地後に枝郷の高谷たかだに村を分村したという(野村家文書)。高谷村分村後の元禄郷帳では高一千七八二石余。宝永元年(一七〇四)の年貢割付帳(野村家文書)によれば高二千五一石余、反別は田八〇町四反余・畑一〇二町六反余、幕府領。


山田村
やまだむら

[現在地名]宇和町山田・西山田にしやまだ

宇和盆地西部の大村。小森こもり古墳・粟尻あわじり古墳群もあり、宇和盆地でも早く開けた地域である。西南部に堂所どうしよ(五九三メートル)があり、東は永長ながおさ村、西は郷内ごうない村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「山田村 茅山有、日損所」と記される。山田騒動の翌宝暦四年(一七五四)に東組を東山田ひがしやまだ村、西組を西山田村とし、二ヵ村に分割された。

太閤検地の石高は二千四三五石八斗八升で宇和島藩内最大であり、耕地面積の比率は田九九パーセント、畑一パーセントで、まったく水田に依存する。寛文検地の石高は一二パーセント減少し、田八四パーセント、畑一六パーセントに変化している。「墅截」による村柄は「中」、耕地は田畑とも「中」、水掛り「悪」である。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田一町五畝、畑二反一七歩であり、百姓数一八八人のうち本百姓一三九人、半百姓四〇人、四半百姓八人、庄屋一人に分れている。


山田村
やまだむら

[現在地名]中之条町山田

中之条盆地西方の吾嬬かづま山・薬師やくし岳・岩櫃いわびつ山の山麓部にあり、四万しま川を境に東は折田おりだ村、北は下沢渡しもさわたり村・上沢渡村と同川支流上沢渡川をもって境界とする。縄文時代の清水しみず敷石住居跡がある。下沢渡宗本そうほん寺宝篋印塔の康永三年(一三四四)四月付銘文に「吾妻庄河戸村内山田」とある。山田を含めた広い範囲を「河戸村」と称したのであろうか。永禄八年(一五六五)一一月一〇日には池田佐渡守が「本領山田郷」一五〇貫文を宛行われている(武田信玄朱印状写「加沢記」所収)。天正一六年(一五八八)四月二六日の八幡山番帳写(田村文書)に番頭四人の一人として富沢豊前守がみえる。「加沢記」では八幡山はちまんやま砦を中心に活躍しており、「吾妻記」によると吾妻七騎の一人で「富沢豊前 山田村」とあり、字桑原かばらに墓がある。

万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高二六一石余、寛文郷帳では田方五四石余・畑方二〇七石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]宿毛市山奈やまな町山田

芳奈よしな村の東および北、南流する山田川流域の村で、宿毛街道が村の南辺を通る。「土佐州郡志」は「山田郷 中村宿毛往還大路北有、八村合曰山田郷、東西二十町南北七十五町、(中略)其土或白或黒或交砂石、長尾村 大路北側、小島村 長尾東小島与城路存、竹部村 長尾北、土居内村 竹部北、天神村 土居内西有天神社、中之川村 天神村西北、長瀬村 天神西、市生原村 土居内村北山」と記す。縄文晩期から弥生、さらに古墳時代にかけての遺物を出土する複合遺跡の小島こしま遺跡があり、隣接して同時代の有岡ありおか遺跡(中村市)もある。また山田川を挟む山丘上には左岸上流に山田城跡、下流に小田島おだじま城跡、右岸上流から下流にかけて和井わい城跡・伊与田いよた城跡・柴田しばた城跡など戦国時代の城跡が点在する。

当地は「和名抄」に載る古代の幡多はた郡山田郷の中心地と考えられている。幡多庄成立後は同庄に含まれ、正嘉二年(一二五八)一〇月日付前摂政一条実経家政所下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「山田郷参町」とみえ、金剛福こんごうふく(現土佐清水市)供田三町が山田郷内にあった。


山田村
やまだむら

[現在地名]佐和田町山田

石田いしだ川の上流が二つに分れ一方が片貝かたがい川となる。村は片貝川の両岸に展開する。明治二一年(一八八八)の土地台帳絵図(山田区有)に載る当村内の地字(元禄七年の検地帳に基づく)には、細工免さいくめん昼居場ひるいば千阿弥陀せんあみだ不動免ふどうめん大師講田たいしこうでん経塚きようづか心経田しんぎようでん小僧田こぞうでん茶屋平ちややだいらなどの地名がみえる。細工免は戦国期に河原田本間氏のもとで木品の細工に従事した職人に与えられた免田。千阿弥陀は現在本間正歳家に所蔵される千体仏にかかわる免田であろう。不動免は寺社の不動尊に与えられた免田。大師講田は大師講を村で営む経費を捻出する田。経塚・心経田・小僧田などは山伏の存在を示す。また茶屋平は鉱山に伴う茶屋の存在がうかがわれ、当村が鉱山への街道の通過地であったことを思わせる。


山田村
やまだむら

[現在地名]宗像市山田

つり川支流山田川上流域に位置する。西は池浦いけうら村、北は池田いけだ村、北東は遠賀おんが高倉たかくら(現岡垣町)。北の孔大寺こだいじ山麓と南の金山かなやまとの間を通り高倉村に至る道を百合野ゆりの越といい、地蔵じぞう峠が郡境となっている。峠の名は当村にある増福ぞうふく院の地蔵にちなむ(「続風土記拾遺」など)。古代宗像郡山田郷(和名抄)の遺称地。文永八年(一二七一)一一月一〇日宗像宮雑掌が「山田村」のことについて訴えたので、山城石清水いわしみず八幡宮別当法印行清は押妨を止めるよう下知することの請文(宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一四)を提出している。同九年七月一三日、六波羅探題北方北条義宗は宗像社領山田村に対する行清の違乱を止めさせている(「六波羅下知状」同文書/鎌倉遺文一五)。元弘三年(一三三三)九月一七日の後醍醐天皇綸旨で当村などが織幡おりはた宮・許斐このみ権現・孔大寺権現の長日御供以下の料所として安堵されていたが、建武元年(一三三四)三月二〇日に改めて安堵されている(「雑訴決断所牒」同文書/南北朝遺文(九州編)一)


山田村
やまだむら

〔中世〕

千里丘陵から安威あい川に注ぐ山田川上流域の村。摂関家領垂水東たるみのひがし牧に属した。平安時代の最末期か鎌倉時代の初め、当村の在地庄官らは旱魃を理由に本所摂関家に、公事役を免除して領家奈良春日社の神事役を勤仕する保証と、「当牧之法」にのっとり元三(正月三日)以後に入山して木柴を採り、肥灰を春日神供田に施す勧農対策を求めている(年月日欠「垂水東牧山田公文刀禰職事等申状案」永昌記紙背文書)(→垂水東牧。正応二年(一二八九)春日社司は当村の下司重嗣が旬の供菜を欠如したので罪科に処するよう本所の近衛家に訴えた(中臣祐春記)。その処分を要求していることからみて、在地庄官が庄務を緩怠して収納物を横領する形で在地領主化をはかったために起こった事件であったと考えられる。また農民層の階層分化や庄園領主支配から離脱しようとする動きもみられた。承久二年(一二二〇)友弘名の名主中臣能定が当村一四条四里一九坪の二反の作手権を灯油米借用のかたに勝尾かつお(現箕面市)へ渡している(同年二月二五日「中臣能定質地去状」勝尾寺文書)


山田村
やまだむら

[現在地名]大平町西山田にしやまだ

下皆川しもみながわ村の西、富田とみだ村の北西に位置する。北西部に晃石てるいし(四一九・一メートル)がそびえ、その東に太平山がある。太平山の南中腹に曹洞宗の古刹大中だいちゆう寺が建つ。南西は立花たちばな村・白岩しらいわ村と接する。観応元年(一三五〇)より永徳二年(一三八二)の間、小山義政の時代に作成されたと推定される某所領注文案(小山文書)に「中泉庄加納牧野・榎本・山田・富田」とみえる。これより先「吾妻鏡」建久二年(一一九一)一二月一五日条に「下野国山田庄」とある。応永七年(一四〇〇)一二月二七日の源喜檀那職売券(米良文書)によれば、中泉なかいずみ山田の長光ちようこう寺の大弐阿闍梨の門弟引檀那職を売渡している。同一二年一二月二七日の旦那願文(同文書)には「山田長光寺大弐之阿闍梨御弟子輔公」「旦那はんぬき彦八」とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]山江村山田

球磨川支流の山田川流域の谷々に点在する集落よりなり、概して南が低位で水田が開ける。北は初神はつがみ田代たしろ晴山はるやま平川ひらこうの各村、東は河辺かわべ深水ふかみ梁瀬やなせ蓑毛みのもの各村(以上現相良村)、西は万江まえ村、南はおお(現人吉市)に接する。古くは永吉ながよし庄に属し、建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内山田之村田地四十町一反百十石 五十貫」とみえる。

寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では本田高一千四四石七斗余・新田畑高四八三石四斗余である。同一八年の検地帳によると上田七町四反七畝余・中田二七町六反一畝余・下田四九町四反一畝余、上畑一六町八反四畝余・中畑八町五反六畝余・下畑四町九反一畝余・野畑二町四反四畝余・山畑一二町七反一畝余、屋敷八町四畝余、合計一三〇町五畝余、分米一千一五六石一斗余で、水田には比較的恵まれているが、中田・下田の比率が高い。


山田村
やまだむら

[現在地名]東郷町山田

南瀬のうぜ村の北、南流する山田川上流域に位置。北から東は飯森いいもり山や高塚たかつか山などの丘陵を境に山崎やまさき白男川しらおがわ村・二渡ふたわたり(現宮之城町)、西は鳥丸とりまる村・斧淵おのぶち村。文明一七年(一四八五)二月には守護島津忠昌に背いた渋谷重慶の軍勢が東郷に進出し、当地の山田川を挟んで東郷重理の軍勢と戦っている。同年九月、再び背いた渋谷重慶を破った守護方の島津忠廉らの軍勢は、入来いりき院から山田に打越し、けどう院に向かっている(文明記)。戦国期末から近世初頭のものと推定される年欠一一月一〇日の出水公方向用途支配注文(清色亀鑑)に「山田分六町 一貫文」とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]印旛村山田

瀬戸せと村の東に位置し、南は印旛沼に面する。沼対岸は萩山はぎやま新田(現佐倉市)。村域は二分され北部を宮後みやしろ、南部を仲井なかいという。永禄一三年(一五七〇)二月六日、千葉胤富は連年の勤仕を賞して重臣原大炊助に東本領一ヵ所とともに山田之村を給付しており(「千葉胤富判物」原文書)、この山田之村は当地のことか。天正一〇年(一五八二)六月三日の原胤栄判物写(常陸遺文)によると、臼井うすい(現佐倉市)城主胤栄は円天えんてん寺に対し、山田・平賀ひらかと臼井の百姓らが寄進した門前の寺領に守護不入の特権を認めており、戦国時代末期には原氏の支配下にあった。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によれば旗本石尾・三橋・杉原・松波四氏の相給で高六二一石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]土佐山田町山田

岩積いわづみ村の北東にあり、「土佐州郡志」は「東限物部川、西限中野村、南限岩積村、北限野地村(中略)村南有川流」と記す。野中兼山の開いた中井なかゆが北部を、同じく舟入ふないれ川が中部を西流する。穀倉地帯香長かちよう平野の東部を占め、付近の通称を蔵入くらいれという。

山田郷の中心地で、南北朝期には国衙領時久ときひさ名があった。しかし鎌倉時代以来強大であった土佐国の国衙勢力もしだいに後退したらしく、時久名も北朝の兵粮料所となった。暦応三年(一三四〇)六月二日付の細川定禅預ケ置状(蠧簡集拾遺)に「土佐国々衙領時久名事、為兵粮料所々預置也」、同年六月九日付の左近将監実綱書下(同書)に「土佐国々衙領時久名事、任御下文之旨、可被沙汰渡当名於堅田又三郎之状、如件」とみえ、北朝方の堅田(佐伯)又三郎に与えられた。


山田村
やまだむら

[現在地名]伊丹市山田一―六丁目・山田・池尻いけじり一丁目・寺本てらもと一丁目・同六丁目・寺本・奥畑おくはた一丁目・昆陽北こやきた一丁目・野間北のまきた一―二丁目・同四―六丁目

寺本村の南に位置し、北西端を山陽道がかすめる。宝徳四年(一四五二)二月一九日の与一大夫等下地預け状(稲垣文書)によると、「山田せう下村衛門三郎下地」二反は地下(村)のものとなっていたが、この時に宮内大夫に預けられた。署名している与一大夫と斎阿弥は山田庄の村落の代表者と考えられる。なお白井系図によると、天正六年(一五七八)頃山田城主白井栄正らが荒木村重と争って没落したという。文禄三年(一五九四)片桐且元による検地があり(同年九月晦日「山田村検地帳」山田部落有文書)、惣都合高三九一石余・家二七軒。


山田村
やまだむら

[現在地名]村岡町山田

長瀬ながせ村の東に位置し、集落は矢田やだ川の支流山田川流域の山間に発達。本村の南方、山田川上流域に枝村の小城こじようがあり、同所から南東に進む間道は小城越の峠を経て気多けた稲葉いなんば(現日高町)に通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に村名がみえ、当地には中井三郎左衛門殿・兵藤三郎左衛門殿・同八郎左衛門殿などが住んでいた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高五〇石。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。


山田村
やまだむら

[現在地名]神林村山田

南は岩野沢いわのさわ村、北は飯岡いいおか村、西は田中たなか村に接する山麓の村。北をひやつ川が流れる。元弘四年(一三三四)二月一八日の色部長倫譲状写(「古案記録草案」所収文書)によれば、女子千歳へ一期を限り譲られた田在家のうちに、「壱所切田 山田上 別当跡弐段」がみえる。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)には「山田七郎五郎 一貫五十地浄金作本作斎藤々衛門此外同坪一貫地ハ檜原ノ六郎右衛門作之役三百五十文 松山殿之分」とある。また大永七年(一五二七)三月一一日付の諸上しよじよう(現村上市)の寺領年貢納帳(諸上寺文書)には「山田之つほつけ」が記され、「くミの木さわ田」「ほそのお田」「さわ田」「ミさわ田」「しもさわ田」「仏供田」「さかいのおうゑはた」の計一千五〇苅の寺領があった。


山田村
やまだむら

[現在地名]朝倉町山田

現朝倉町域の東端、筑後川中流右岸の扇状地に位置する。西は菱野ひしの村と古毛こも村、東は麻底良まてら(二九四・九メートル)を境に志波しわ(現杷木町)、南は同川を挟んで筑後国生葉いくは橘田たちばなだ(現吉井町)など。日田街道が通り、「続風土記」によると村内に恵蘓宿えそのしゆく外隈そとのくま村がある。小早川時代の指出前之帳では山田村の田一四町九反余(分米一八一石余)・畠三七町七反余(分大豆二三二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高八四八石余、うち大豆五〇六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高九〇三石余・反別七八町四反余、家数七八・寺一・社一、人数五三三(田圃志)


山田村
やまたむら

[現在地名]滑川町山田

滑川の左岸に位置し、東は大谷おおや村・野田のだ(現東松山市)、西は福田ふくだ村。松山まつやま領に属した(風土記稿)。田園簿では田高五五六石余・畑高一五〇石、旗本森川領。「風土記稿」では当村が森川領になったのは天正二〇年(一五九二)のこととするが、同年二月、森川金右衛門(氏俊)入西につさい郡のうちで高一千六四三石余を徳川氏から与えられている(記録御用所本古文書)。以後同領で幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。用水は山田大やまたおお沼をはじめとする溜池を利用、鎮守は淡洲あわす明神社。化政期の家数九〇余(風土記稿)


山田村
やまだむら

[現在地名]福島市山田

上鳥渡かみとりわた村・下鳥渡村の南に位置し、南は小倉おぐら村、西は荒井あらい村。集落はおもに山麓線沿いに分布する。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉しのぶなぐら方のうちとして「やま田」とみえ、段銭は五貫文。同二二年の晴宗公采地下賜録では、信夫庄山田のうち国井二郎衛門分「やなきのまち千かり」が舟山藤三に与えられている。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五二六石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ一分、家数二七(役家七、肝煎・小走二、山伏・脇家一八)、人数七四、役木として桑・楮各少しがある。米沢藩領時代の古高一千八五石余、幕府検地による新高九二三石余(古高新高帳)


山田村
やまだむら

[現在地名]田代町山田

大館盆地西端部に向かって南流する山田川中流域に位置する。天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「御歩行頭 山田村居主蟹沢庄兵衛、同村ニ居主御番頭山田助右衛門、同村ニ居主山田喜左衛門」とみえる。中世後期を通じ浅利氏領であったが、天正初め頃安東(秋田)氏領となる。天正一九年(一五九一)の村高は二八一・二六〇石(「出羽国秋田郡知行目録写」秋田家文書)比内ひない回復をねらう浅利氏との間にその後も抗争が続き、文禄三年(一五九四)秋田実季の侵害に遭ったが、「山田村 田 家廿余之内、半分秋より放火」(「浅利頼平領内村数覚書」秋田家文書)と記される。


山田村
やまだむら

[現在地名]玉名市山田

小岱しようだい山の南麓にあり、村央をさかい川が南流する。北は府本ふもと(現荒尾市)、東は立願寺りゆうがんじ村、南は中尾なかお村、西は築地ついじ村に接する。年未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(相良家文書)に相良宗頼領地として玉名郡内の「山田村六丁」がみえる。宗頼は元久二年(一二〇五)人吉ひとよし庄地頭となった相良長頼の弟にあたり、こののちに当村を領したのであろう。天正一八年(一五九〇)七月八日の加藤清正判物(庄林文書)によれば、「玉名郡上山田村」の七四六石五斗五升が加増分として庄林伊右衛門尉へ渡されている。

慶長九年(一六〇四)の検地帳によれば田二三町四畝余・畠屋敷一七町九反四畝余・屋敷四一筆、分米三七八石五斗余。


山田村
やまだむら

[現在地名]西都市山田

荒武あらたけ村の西に位置する。村の北隅を三財さんざい川が流れ、その流域にわずかに水田が広がり、山間には迫田があり、集落が点在する。

貞和四年(一三四八)一二月、日向に下向した伊東祐重が仮の居としたのが「都於郡山田池ノ房」であったと伝える(日向記)。応永三三年(一四二六)五月一六日、伊東祐立は垂水立秀に山田名内の市田寺寺務職(水田一町)を安堵している(「伊東祐立市田寺務職宛行状写」伊東文書)。室町期の年未詳四月一二日の伊東祐長書状(荒武文書)によると荒武藤兵衛尉が山田を知行することとなった。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によるとつま(現都萬神社)領のうちに「山田六十町之内板か迫五反」などがあった。


山田村
やまだむら

[現在地名]橋本市山田

紀ノ川の右岸の小高い丘陵地から葛城(和泉)山脈の山腹にかけてあり、南は神野々このの村、東は菖蒲谷しようぶたに村。元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)にみえる河内観心寺領伊都いと大山田おおやまだ庄を当村域に比定する説もあるが、大山田庄については不詳である。建久三年(一一九二)七月二七日の本家下文案(又続宝簡集)で「河北方長栖大野山田村主」などの役夫工所課が免除されており、当村は高野山領官省符かんしようふ庄河北方に属していた。同文書にみえる「村主」は「和名抄」の村主すぐり郷に比定され、当村付近も村主郷の内であったと考えられている。


山田村
やまだむら

[現在地名]仙台市山田・太白たいはく一丁目・同三丁目・鈎取本町かぎとりほんちよう一丁目・上野山かみのやま二丁目・山田自由やまだじゆうおか山田北前町やまだきたまえちよう山田上やまだうえ台町だいちよう山田本町やまだほんちよう羽黒台はぐろだい日本平にほんだいらひより台ひよりだい旗立はたたて一―三丁目・人来田ひときた一丁目

鈎取村の北・西方、名取川の河岸段丘左岸に立地し、北部から西部は丘陵になっている。南は同川を隔てて熊野堂くまのどう(現名取市)と境する。村を東西に二口ふたくち越出羽道が縦貫している。古代には熊野堂から北上したあずま海道が、名取川を当村南東端の栗木くりきで渡り鈎取村へと北東進し、多賀城に通じた。


山田村
やまだむら

[現在地名]袋井市山田

豊田とよだ郡に所属。敷地しきじ川中流域にある。南東は平地が開け上川会かみかわい村、西は磐田原台地より南に延びる丘陵、丘陵沿いに集落がある。永禄一一年(一五六八)一二月一二日の徳川家康判物写(鈴木重信氏所蔵文書)によれば、家康の遠州入りの際に井伊谷いいのや(現引佐町)筋の案内をした菅沼二郎右衛門(忠久)ら三人に「山田」ほかの地を与えている。同年一二月二六日、家康は山田・友長ともながなどを鵜殿三郎(氏長)らに安堵している(「徳川家康判物写」譜牒余録)


山田村
やまだむら

[現在地名]恩納村山田やまだ

恩納うんな間切の南西部に位置し、北は東シナ海に臨み、東は仲泊なかどうまい村、西は真栄田めーだ村。所属間切の変遷は谷茶たんちや村に同じ。絵図郷村帳の読谷山ゆんたんじや間切のうちに古読谷山村とみえる。琉球国高究帳でも同間切中に古読谷山村とみえ、高頭七九石余、うち田六三石余・畠一六石余。「琉球国由来記」では恩納間切のうちに読谷山村とみえ、拝所にオシアゲ森・山田巫火神・神アシアゲがあり、山田ノロが管轄していた。「中山伝信録」では恩納間切の山田とみえる。絵図郷村帳にみえる読谷山間切の「くらは村」は久良波・倉波とも記され、当地の字久良波原くらはばるが遺称地。


山田村
やまだむら

[現在地名]能勢町山田

長谷ながたに村・垂水たるみ村の北に位置し、山田川上流域にあたる。同川沿いに石堂いしんどう日野ひの中所なかんじよ下所しもんじよの集落が散在する。西は中山なかやま峠を経て川辺かわべ鎌倉かまくら(現兵庫県川辺郡猪名川町)中間なかま遺跡からは古墳時代の須恵器、坊縄手ぼうのて遺跡からは奈良時代の須恵器が発見されている。南方のしろ山山頂に山田城跡がある。山田助右衛門の居城という(寛政一一年「村明細帳」山田区有文書)。永禄二年(一五五九)二月九日の能勢郡諸侍書上覚写(井戸家文書)に山田村諸侍が書上げられているが山田氏の名はみえない。


山田村
やまだむら

[現在地名]富山町山田

平久里中へぐりなか村の東、平久里川の源流域に位置し、南に御殿ごてん(三六三・九メートル)がある。平久里中村方面と丸山まるやま川上流域を結ぶ道が通る。平久里五ヵ村の一で、元和検地前は平久里村のうち。正保郷帳に村名がみえ、田高二〇二石余・畑高一六七石余、佐倉藩領。明暦元年(一六五五)の地詰帳(川名家文書)によると、上田二町八反余(一石三斗代)・中田二町四反余(一石一斗代)・新中田四畝余(同上)・下田六町三反余(九斗代)・新下田一町二反余(同上)、計一二町九反余・高一三二石余、ほかに永荒が一町三反余・高一五石余がある。畑は上畑一町九反余(一石代、以下二斗下り)・中畑一町五反余・下畑四町六反余・新下畑二反余・山畑一反余、新山畑(四斗代)・屋敷八反余(一石代)、計一一町三反余・高七七石余、ほかに永荒が一町六反余・高一一石余がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]本吉町 漆原うるしばら尾田おでん角柄つのがら宮内みやうちまつさわ小峯崎こみねざき猪の鼻いのはな狩猟かりよう館下たてした岳の下たけのした中沢なかざわ

津谷つや川支流の馬籠まごめ川中流に集落が散在し、西は馬籠村、北と東は津谷村、南は小泉こいずみ村に接する。正保郷帳に田一八貫二二〇文・畑一〇貫五一七文とあり、ほかに同所新田四貫六三文があり、水損と注記される。慶安三年(一六五〇)の大友平左衛門宛の伊達忠宗領知黒印状(伊達家文書)によれば、山田村などの八貫四〇〇文が加増されている。


山田村
やまだむら

[現在地名]川島町山田

くわ村の東に位置し、北東は西麻植にしおえ村、東は敷地しきじ(いずれも現鴨島町)、南はひがし(現美郷村)。北部は平坦な洪積台地、南部は四国山地の山麓部で、この山麓部を水源として北流する湯吸谷ゆすだに川が村の中央部を貫流する。文治二年(一一八六)四月頃に源頼朝が上奏した政道振興策に対する後白河法皇条々事書(「吾妻鏡」同年六月九日条)には久千田くちだ(現阿波町)に続いて「山田庄」がみえ、同庄については院から追って申伝えることがあると記されている。この山田庄を当地に比定する説もあるが(「阿波志」など)、明証はない。


山田村
やまだむら

[現在地名]阿蘇町山田

南は小野田おのだ村、西は小倉おくら村に接する。元徳二年(一三三〇)一月一四日の阿蘇社造営料木第三箇度切符写(阿蘇家文書)によれば「小野田 山田 上井手」が共同で料木を負担している。建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(同文書)に渋河兵庫助が沙汰する北郷中に「一所十町 小野田下山田 北薗 河嶋方 上井手郷」「一所十町 山田寺村」とみえ、近世の小村・寺名にある山田寺と下山田とに分れており、これが天正期(一五七三―九二)の上山田村と下山田村になると思われる。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(同文書)によれば「一所 しもやまた一丁五反」は、南郷の武家方の大宮司惟村の代官「しちうのひこ九郎」、「なかゝ」の代官の「いまむら」が知行し、「一所 やまたのたけのわき一丁」は、惟村の代官「たかさきの十らう」、「なかゝ」の代官「八はうり」が知行している。


山田村
やまだむら

[現在地名]大野城市山田一―四丁目・御笠川みかさがわ一丁目・筒井つつい一丁目

畑詰はたつめ村・仲島なかしま村の南、御笠川左岸にある。南西は那珂なか郡春日村。北西から南東に日田街道が通り、当村南西に雑餉隈ざつしよのくま町が形成されていた。集落はもとは北部の御笠の森の辺りにあったが、延宝(一六七三―八一)の頃南・南西寄りに移ったという(続風土記附録)。天正一五年(一五八七)一〇月二六日の横岳山崇福寺領注文(崇福寺文書/大宰府・太宰府天満宮史料一七)によれば、「山田村泉松寺」三町が当知行の崇福そうふく寺領として書上げられており、これは当地のことと考えられる。


山田村
やまたむら

[現在地名]三和町山田

長井戸ながいど(現在は水田)東枝東方に所在。南北に台地が続き、北は北山田村。村の東を南北に日光東街道が通る。大山田とも称し、「和名抄」の八俣やまた郷の中心といわれる。長井戸沼に面した台地に存在した十三塚じゆうさんづか古墳群は十二塚古墳群とも称し、東南五〇〇メートルの地域に一三基の円墳があったが現存は一基のみ。これらのうちに石室を伴ったものがあり、土師器二点、直刀数振、勾玉などが出土。


山田村
やまだむら

[現在地名]垂水区東舞子町ひがしまいこちよう北舞子きたまいこ一―四丁目・西舞子にしまいこ一―九丁目・舞子台まいこだい一―八丁目・狩口台かりぐちだい一―七丁目・舞子坂まいこざか一―四丁目・星陵台せいりようだい一―八丁目・五色山ごしきやま八丁目・歌敷山うたしきやま一丁目・ほしおか一丁目・同三丁目・南多聞台みなみたもんだい四―八丁目・舞子陵まいこりよう

山田川流域を占め、南は明石海峡に面した半農半漁の村で、山陽道が東西に貫通し東は西垂水村。中世山田庄の遺称地。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方六六六石余・畠方九三石余、松山あり。


山田村
やまだむら

[現在地名]那珂川町山田

別所べつしよ村の東、那珂川右岸にある。北は西隈にしぐま村、北東は安徳あんとく村。小早川時代の指出前之帳では山田村は田五三町四反余(分米七九八石余)・畠七町九反(分大豆五一石余)。この数値には別所村分も含まれるとみられる。慶長七年(一六〇二)の検地高は一千九一石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千一〇四石余、家数七五・社一・寺一、人数四四九(田圃志)。石高書上帳案では枝郷寺山田てらやまだ村分を除く当村の郡帳高六五三石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数七六・人数三一一、牛五・馬四一(別本「続風土記附録」)。当村庄屋高橋善蔵は延享四年(一七四七)に櫨栽培の技術書「窮民夜光珠」を著している。当村で那珂川から取水するいちの堰手は神功皇后が築造したとの言伝えがある筑前最大の井手で(続風土記)、堰手の長さ八間・幅三八間(続風土記拾遺)


山田村
やまだむら

[現在地名]上山田町上山田

現上山田町の本村と温泉区。本村は女沢めざわ川に沿って丸山まるやまを中心に城腰じようよう宿しゆく下窪したくぼ三本木さんぼんぎ羽場はば八坂やさか等の集落が散在する。温泉区は村の北端下川原しもがわらにあり、明治になって千曲川原にできた集落である。村名山田は山田里に由来する(上山田町誌)が、真田氏松代藩が高井郡を領有するに及んで二つの山田村を区別するため上下をつけ、寛文四年(一六六四)上山田村と呼んだ(信濃国川中島松城領高辻帳)


山田村
やまだむら

[現在地名]大井町山田

西にきく川が流れ、東は赤田あかだ村、南は上大井かみおおい村、北は篠窪しのくぼ村と接し、小田原道が北から東南に通る。小田原衆所領役帳に小幡源次郎「三百四十五貫三百文 西郡(大)井山田」とある。永禄五年(一五六二)四月一三日の北条家朱印状写(県史三)によれば「百六拾貫文 (大)井之内山田村定納」として小長谷氏に与えられ、陣夫二疋分など一六貫文を引いた一四四貫文が所務分とされている。

近世は元禄一一年(一六九八)まで小田原藩領、同年大久保教寛に分知、宝永五年(一七〇八)より幕府直轄領。


山田村
やまだむら

[現在地名]御津町朝臣あさとみ

揖保川下流右岸のひな山南麓に位置し、東はしも村。西山田・東山田・庄の内しようのうちの三集落からなる。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に庄内村がみえ、黒崎くろさき村・かた村・井津いづ村と合せて六一二石余が小出吉政に与えられている。慶長六年(一六〇一)の揖西郡之内山田村田方検地帳(西井家文書)が残るが、石高の記載はない。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高六一三石余、高五〇七石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]余市郡余市町山田町・入舟町いりふねちよう美園町みそのちよう

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した村。浜中はまなか村の南にあり、余市川が北流する。明治四年小樽にあった旧会津藩士のうち一六九戸が黒川くろかわ村・山田村に移って開拓にあたり(「事業報告」第二編)、同六年四月中旬から同年九月までの間に黒川村・山田村の移民一九八戸が畠一九一町八反余を開墾したことが報告されている(「開拓使日誌」同七年一月一七日条)。開拓は旧会津藩士宗川茂友が惣取締に選任されて従事した。


山田村
やまだむら

[現在地名]智頭町三吉みよし

土師はじ川を挟んで大坪おおつぼ村の対岸にある。段丘状斜面に集落が広がり、北は横田よこた村。土居どいという枝村がある(因幡志)。拝領高は一八四石余。本部氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高二〇〇石余、毛付高二四七石余、本免五ツ七分、同年の物成高一三三石余、ほかに川役米一斗一合が課されていた。天明―寛政年間(一七八一―一八〇一)のものと推定される書上(古田家文書)によれば田畑畝数一六町四反余、家数二六・人数七五、牛二二。「因幡志」では家数一七。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高二四一石余、竈数一四。寛延三年(一七五〇)庄屋・年寄・五人組頭は村惣作の田や悪田が多く困っているので美作国東北条とうほくじよう河井かわい(現岡山県加茂町)六兵衛一家四人を入百姓にしたい旨を嘆願し聞届けられている(在方諸事控)


山田村
やまだむら

[現在地名]大和町鶴巣つるす 山田

七北田ななきた丘陵の北斜面の山間にある。中央を川原田かわらだ川の小川に沿った開析谷が北方に走る。道は多賀城から利府りふ(現宮城郡利府町)を経て、下草しもくさ吉岡よしおかに至る古代の駅路が谷に沿って南北に通じる。東は小鶴沢おつるざわ村、南は利府菅谷すがや村、西は大亀おおがめ(現富谷町)、北は大田おおた村。文和元年(一三五二)一二月二三日付足利尊氏御判御教書(留守文書)にみえる「黒河郡内南迫七カ村」の一とされる。


山田村
やまだむら

[現在地名]男鹿市男鹿中山町おがなかやままち 山田

男鹿半島の北部中央、たき川中流の台地に集落が開ける。南は滝川たきがわ村支郷のすぎした村、東は中間口なかまぐち村、北は町田まちだ村となる。標高約四〇メートルの台地が北西約二キロの相川あいかわ村まで続く。

康永四年(一三四五)銘の割石板碑が残る。菅江真澄は「十文字野といふに碑二ツまでたてり(中略)馬手の、六さか(六尺)ばかりなるいしぶみの面に康永三のとしのあり。兼季の時世をしのぶ」(男鹿の春風)と、相川村との中間地点に康永三年銘の石碑が立てられていたことを伝える。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「山田村 中真口村」として三五一石七斗六升七合とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]赤泊村三川みかわ 山田

腰細こしぼそ村の北に位置する山村。東は莚場むしろば村、西は徳和とくわ村、北は丸山まるやま(現畑野町)および国仲くになか一六ヵ村入会山(現真野町飛地)に接する。腰細村との境は明確でなく、両村共有の山や畑が村内各所にある。また村域内には社寺がなく、腰細村の八幡宮と春日大明神を村の鎮守とし、腰細村と徳和村の寺の檀家となっている。中世には腰細村と一村であったと推定される。村は北東部の東郷ひがしごう、中央の中郷なかごう、南西部の西郷にしごうの三地域からなり、「じょう」とよばれる住居が集まった場所が各郷の山間に点在し、その周辺に沢水や湧水を利用した古田が開かれる。


山田村
やまだむら

[現在地名]三朝町山田

村の西、三徳みとく川北岸に位置し、倉吉往来(鹿野道)が山麓近くの集落内をほぼ東西に通る。昭和二九年(一九五四)小字坂の谷さかのたに宮の谷みやのたにの境界付近から円墳が発掘され、陶製壺に入った銅製経筒が発見された。その中に朱書の法華経八巻が納められ、経文末尾の願文には「大日本国山陰道山田村荘厳寺」「天福癸巳」と記されていたという(三朝町誌)。古墳からは人骨数個と刀剣、須恵器一〇個などが出土した。

拝領高九五石余。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一八〇石余、竈数三二。


山田村
やまだむら

[現在地名]高山市山田町・みどりおかたくみ丘町おかまち

川上かわかみ川右岸にあり、北の下流側は下林しもばやし村、東南は下岡本村しもおかもとむら。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)に山田郷がみえる。田三八町六段半・畠五町七段大、うち新田が三町・国佃・庁分佃などがあった。目代の得分となる庁分物として芻(布脱カ)一段・収納苧二目が未進となっている。文明一八年(一四八六)一二月二八日、大野郡山田の善慶(飛騨国白川善俊門徒)に対して本願寺蓮如より方便法身尊像(浄覚寺蔵)が与えられている。


山田村
やまだむら

[現在地名]桜井市大字山田

高家たいえ村西北、阿部あべ村から奥山おくやま(現高市郡明日香村)に至る街道(山田道)東側に所在。山田寺跡付近の集落。山田道は「日本霊異記」巻上「雷を捉ふる縁 第一」のいかずち岡伝説で、小子部栖軽は雄略天皇の磐余いわれ宮から「阿部の山田の前の道」を通って雷岡に至ったとあり、「万葉集」巻一三にも「山田の道」がみえ、「大和志」に「山田路山田村西」とある。

慶長郷帳の村高六九〇・五五石、旗本秋山右近領。元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領に編入され廃藩置県に至る。「宗国史」に戸数一一二、人数五三二、祠に八幡、寺に西念さいねん寺・蓮華れんげ寺・善行ぜんこう寺、牛九とある。

本居宣長の「菅笠日記」は「ひろき道にいづ。


山田村
やまだむら

[現在地名]森田村山田

岩木山周辺部に形成された山田野やまだの台地の北側が、津軽平野へ続く線上にあり、西は森田もりた村、田圃を隔てて東は猫淵ねこふち村、南は六沢むさわ溜池。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図によれば、西から東へ田吉たよし村・山崎やまざき村・山田村・さく山村が続いている。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)に山崎村が改名して山田村になったとある。「西津軽郡史」によれば、山田は元は田吉村といったが、慶長九年(一六〇四)山崎金三郎が広須ひろす(現柏村)から移住して山崎村と称し、享保一二年田吉の田と山崎村の山とで山田村と称したとある。


山田村
やまだむら

[現在地名]大和郡山市山田町

矢田やた村南方、矢田丘陵松尾まつお山東麓に位置する。久寿二年(一一五五)一〇月の僧実快田畠譲状(大東文書)に「西松尾所知田畠等事(中略)在大和国添下郡山田之内」とある。また「多聞院日記」永正四年(一五〇七)一一月一七日条には「一国打廻在之、此間焼残鳥見・生駒・矢田・松尾・田原以下悉以焼畢」とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]小山市東山田ひがしやまだ

鬼怒川とおもい川との間に広がる洪積台地上の北東部に位置し、東は延島のぶしま村。慶長一〇年(一六〇五)以降出羽秋田藩領。秋田藩下野領郷村高辻帳ならびに古書写(国立公文書館蔵)では、同藩下野領は一括して薬師寺やくしじ領ともよばれ、佐竹氏が同七年水戸から出羽秋田へ転封となったときに与えられたとされるが(寛政重修諸家譜)、実際には同一〇年幕府代官頭伊奈忠次より所領を引渡され、年貢収納は翌年から行ったとされる。


山田村
やまだむら

[現在地名]高遠町大字上山田・下山田

三峰みぶ川に注ぐ新山にゆうやま川の西方にあたり、三峰川の段丘上から山麓にかけて開けた村。中世においては山田郷と称し、山田氏の本拠であった。

藤原定家仮託本ともいわれる建保五年(一二一七)成立の「三五記」(群書類従本)の奥書に「信州善光寺参詣次於伊那郡山田郷数日逗留時節、山田彦次郎清原真人盛政、依有殊懇志、彼二帖抄物、令相伝者也、(中略)長禄四年九月十二日、俗名前参議具世桑門光暁判」とあり、これが山田郷の初見である。また山田氏については享禄二年(一五二九)の写本「信州大塔軍記」のなかに「山田新左衛門」の名がみえる。村の南の山上(八三七メートル)に山田城の跡が残っており、このほか村内に与市よいち城、小池こいけ城とよばれる城跡もある。


山田村
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[現在地名]郡家町山田

下坂おりさか村の東方に位置する。拝領高は二六七石余。本免五ツ二分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高二九九石余、竈数二〇。「因幡志」でも家数二〇、産土神は八幡宮。産物は大竹。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二九九石余、竈数二一。伊藤・早川・戸田・多田の四氏の給地であった(給人所付帳)。藪役銀六匁余を課されていた(藩史)。当村と東接する山路やまじ村は草山が少なく、南方花原はなばら村の草山に入会っていたが、宝暦一四年(一七六四)この入会権をめぐって三村間に争論が起き、藩の裁許で当村と山路村の刈場が確定され、当村は花原村に毎年二斗の草手山米を納めることになった。


山田村
やまだむら

[現在地名]東員町山田

員弁川の北、瀬古泉せこいずみ村の西に位置する。中世には村域に伊勢神宮領山田御厨が存在し(神鳳鈔)、後に京都実相じつそう院門跡領となった(「実相院文書」京都大学蔵)。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳に、御鉄炮衆御代官山本小六郎の知行地として、「いなへ郡山田両郷」七〇一貫がみえるが、織田信雄が改易せられた後の天正一九年には、五月四日付の朱印状で豊臣秀吉より津田小掃部に員弁郡山田郷六八一石が宛行われている(土佐国蠧簡集竹頭)


山田村
やまだむら

[現在地名]五箇村山田

こおり村の北東に位置し、山田川が流れる。中世には一帯に山田別符が成立していた。慶長一二年(一六〇七)の越智郡検地帳に山田村とみえ、牧上畑の石盛は四斗代(島根県史)。寛永一五年(一六三八)の一宮大明神社領書上(忌部家文書)に山田村・郡村・苗代田なわしろだ村がみえ、三村内の三〇石が水若酢みずわかす神社領となっている。正保国絵図に村名がみえる。


山田村
やまだむら

[現在地名]三春町山田

鷹巣たかなす村の西、舞木もうぎ村の北、八島やしま川およびそれと併走する会津への道(国道二八八号)に沿う。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「とち窪」、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「とち窪」と「山田」がみえ、山田村の栃久保とちくぼが一村として扱われている。「とち窪」は反別三段・年貢三〇〇文を上納、山田は反別三段・年貢二〇〇文を上納している。


山田村
やまだむら

[現在地名]浜玉町大字東山田ひがしやまだ

作礼さくれい山山系の一つ、日見ひのみ山の山裾の丘陵台地にあり、村内を横田よこた川の上流山田川が通る。かがみ山と日見山稜線の鞍部に、かつて大村おおむらと郡衙を結ぶ古代官道が通じていた。山田・瀬戸せとの集落がある。

慶長絵図に「高千八十九石三升三合 山田村」とある。唐津藩政期、平原ひらばる組に属していたが、文政元年(一八一八)鏡組に変わった。明治一四年(一八八一)東隣の野田のだ村と合併して東山田村となる。

字瀬戸に八幡神社、字小原おばるに山田神社・矢房やぶさ神社がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]瑞浪市山田町・明賀台みようがだい上平町うえだいらちよう

小田おだ村の南東、北流する万尺まんじやく川沿いの平地にある。天正一一年(一五八三)の小里氏への徳川家康の感状(「小里家譜」阿子田文書)に山田とある。慶長郷帳に山田村とみえ、旗本小里光親領四一八石余・旗本遠山利景領一〇三石余。元和九年(一六二三)小里領は幕府領となる。正保郷帳では田四五九石余・畑五九石余・山高二石余、草山がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]大飯町山田

本郷ほんごう村の南、芝崎しばさき村の東にある。佐分利さぶり川の支流山田やまだ川に沿う狭い谷あいに位置し、西を除く三方は山に囲まれる。「若狭郡県志」に「山田村属本郷、去小浜三里半許也」とある。村域内に字仁王堂におうどう本寺ほんじ奥本寺おくほんじうえぼう法選坊ほうせんぼう毘沙門びしやもんなどがある。これについて元和元年(一六一五)の「本郷中古伝説記」(山口家文書)は「山田村には海音堂とて大いなる観音堂あり、並に仁王門、毘沙門堂、阿弥陀堂あり、同じく天台六ケ寺あり、永禄年中に焼失す」と記す。


山田村
やまだむら

[現在地名]下松市大字山田

河内こうち村の北、切山きりやま村の西に位置し、西隣は生野屋いくのや村。村内を切戸きりと(久保川)が南流する。徳山藩領。

永禄四年(一五六一)八月二日付の三田就政に対する毛利隆元宛行状(「閥閲録」所収三田新五左衛門家文書)に「周防国都濃郡山田郷虚昌寺領之内弐(石)余、為給地遣置候、全可知行候、仍一行如件」とある。

慶長五年(一六〇〇)の検地帳では山田村として総高は六七九石六升、同一五年の検地帳では一千二二石余、うち田方は六六町余で九四二石余、畠方が一三町余で五〇石余、百姓屋敷四六とあり、毛利輝元が次男就隆に元和三年(一六一七)分知した領知目録(毛利家文書)にも山田村一千二二石五斗五升五合とみえる。


山田村
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[現在地名]玉野市山田・東野崎ひがしのざき

西田井地にしたいじ村の南に位置し、西は戸立とたて峠から波知はち村に続き、東は瀬戸内海に面する。地名は一説に「日本書紀」に伝える欽明天皇一七年の児島こじま屯倉設置に際し田令に任命された葛城山田直瑞子にちなむという。慶長九年(一六〇四)の検地帳(三宅文書)では田三七町三反余・畑屋敷二七町六反余、屋敷持名請百姓五五(うち寺社五)・下人百姓九。寛永備前国絵図では村高七三六石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]由利町山本やまもと新上条しんかみじよう

子吉こよし川中流右岸の平地にあり、東は土蔵つちくら村、南は新上条村、北は川を隔てて川向かわむかい村と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に滝沢領の一村として村名がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一四三石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳にもほぼ同高が記される。その後近世中・後期にかけて活発な新開が行われたらしく、天保郷帳には三六六石八斗九升二合とあるが、具体的な史料はない。

山田村の北に隣接する上条かみじよう村は出羽一国絵図に三七石の小村として記され、天保郷帳では前郷まえごう村に含めて記されるが、明治九年(一八七六)には分村し、新たに山田村と合併して、村名を山本村と改めた。


山田村
やまだむら

[現在地名]芝山町山田・宝馬ほうま

高谷たかや川の右岸、大台おおだい村の北に立地する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高六三三石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では小原子おばらこ村・加茂かも村・巣毛下すもげ(住母家村)菱田ひしだ村とともに山田組を構成し、幕府領高四〇〇石、旗本浅岡領高二〇〇石。朝岡氏は寛永期(一六二四―四四)からの知行と考えられる(寛政重修諸家譜)。寛政五年(一七九三)の家数七七、多古藩と旗本新庄氏・同浅岡氏の相給(上総国村高帳)。新庄氏は寛文期からの知行と考えられる(寛政重修諸家譜)。嘉永三年(一八五〇)に多古藩領が上知され(「下総多古久松家譜」など)、慶応四年(一八六八)の村高書上帳(おとづれ文庫蔵)によると家数五三、朝岡分は高二〇〇石(無反別)


山田村
やまだむら

[現在地名]広神村山田

破間あぶるま川の支流日付ひづけ川流域にある。下流に山田新田・新保しんぼ村と続き、上流に米沢よねざわ村がある。正保国絵図に村名がみえ、高二一石余。天和三年郷帳では高一六六石三斗余、ほかに同所新田高三〇石二斗余と一三〇石二斗余の二ヵ所がある。「新編会津風土記」では家数は山田村三九・山田小新田村五で、両村の民家・耕地は錯綜して不分明。用水の山田堰は米沢村で日付川を取水し、約二〇町歩を潤す。ズッテン堰は字才之神さいのかみ地内から日付川を取水し、約二〇町歩を潤す。ズッテン堰の開削は天和年間(一六八一―八四)以前と伝える。

東方上権現堂かみごんげんどう(九九七・九メートル)から西方へ延びる尾根の先端に琴平ことひら城跡がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]あきる野市山田・上ノ台うえのだい

あき川左岸にあり、西は伊奈いな村。地内を川口かわぐち(現八王子市)から網代あじろを経て青梅おうめ方面に至るいわゆる鎌倉街道が通り、当地は秋川の渡河地点でもある。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)に山田とある。地内の瑞雲ずいうん寺は足利尊氏夫人の開基と伝え、天文五年(一五三六)の当地の領主は小宮上野介顕宗と同左衛門頭綱明という(「棟札」風土記稿)。綱明の綱は北条氏綱の偏諱であろう。田園簿に村名がみえ、田一石余・畑一三一石余で幕府領、ほかに瑞雲寺領八石。元禄郷帳では高一六二石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領一四七石余とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]岡山市山田

妹尾崎せのおざき村の南に位置し、南東は妹尾村。「備中誌」には「山田・妹尾・妹尾崎の三ケ村一村なり」とあり、もとは三ヵ村とも妹尾郷の内であった。寛永備中国絵図では高九四六石余、庭瀬藩戸川氏領。正保郷帳には枝村として坪井つぼい村が記される。元禄備中国絵図では高一千六六三石余。村高の増加は寛文九年(一六六九)庭瀬藩より旗本妹尾戸川氏が分知された時、村高の編成替えがあったためと思われる。


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やまだむら

[現在地名]黒羽町片田かたた

南流する那珂川上流左岸に位置し、対岸は湯津上ゆづかみ村、北は湯殿ゆどの村、北東は亀山かめやま村。北部上山田と南部下山田からなる。明応年中(一四九二―一五〇一)大関宗増は居城を黒羽から「堅田郷山田」に移し、永正年中(一五〇四―二一)には主家那須資親(上那須氏)の実子資久を山田城で養育したという(「大関家系図」黒羽町蔵)。山田城は下山田の字上城の山田館跡で、御城などとよばれ、鎌倉初期に那須資隆の八男堅(片)田八郎義隆により築かれ、のち大関氏が入ったと伝える。


山田村
やまだむら

[現在地名]唐津市山田

波多はた川(徳須恵とくすえ川)の支流山田川沿いの山間の村落で、山田峠を境に唐津へ通ずる。古代、松浦郡衙と登望とも駅への通路筋とされ、藩政期は唐津から長崎への塚崎つかざき往還が通っていた。谷間の村落で耕地に乏しく、水利に欠け、黒竜・辻田・団六などの溜池がある。

正保絵図に「山田村」と記し、文化年中記録に畝数二五町三段四畝二四歩とある。

菅牟田すがむた村と接する字西にしに高さ五間ほどのつつみヶ滝がある。

正元二年(一二六〇)の将軍政所下文(石志文書)に御家人山田四郎種と鴨打源次集の闘争のことがみえ、山田四郎種はこの村と関係あるとされる。


山田村
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[現在地名]西浅井町山田

小山おやま村の東、八田部はたべ村の南、八田部盆地の南東縁丘陵に立地。南は葛籠尾つづらお崎の山地が迫る。寛正二年(一四六一)の菅浦大浦両庄騒動記(菅浦文書)によれば同年七月二四日、菅浦すがうら居住の商人が「山田」を通ったところ、商人を殺害したうえ荷物も奪ったとして、同二九日菅浦から山田へ押寄せ、物を奪い四、五人を殺し、放火し馬牛も焼殺した。寛永石高帳に村名がみえ高四六六石余、山城淀藩領。延宝七年(一六七九)の検地では、田二八町一反余・高三九三石余、畑一四町二反余・九六石余、屋敷一町七反余・一三石余(伊香郡志)。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。文政石高帳では三河吉田藩領。


山田村
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[現在地名]安芸市くち 山田

安芸川中流東岸に位置し、対岸は千光寺せんこうじ村、北は栃木とちのき村、東側は山地である。中央を南に江川えがわ村に通じる道が通り、その中間の山中に内原野うちはらのがある。山田・会下谷えげだにさわひらの集落に分れる。天正一七年(一五八九)の西山五名千光寺山田地検帳に山田村として五八筆、ゑけ谷村として四筆、ヒシヤウ谷村として七筆、沢村として七筆、泉谷村として一三筆などがみえ、これらがのちの山田村になったと思われる。

元禄郷帳によれば本田高二一六・六〇三石で、「井ノ口村枝郷」の注があり、元禄地払帳では本田高・新田高ともに井ノ口村・一宮いちのみや村に含まれる。


山田村
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[現在地名]関市山田・津保川台つぼかわだい一―二丁目

津保川左岸にあり、武儀むぎ郡に属し、北は小簗おやな村。「吾妻鏡」寛元三年(一二四五)五月七日条に「山田郷」とみえ、懸物年紀について山田郷に芥見あくたみ(現岐阜市)を付けるとある。文永元年(一二六四)三月二五日の某置文(湖山集)によれば、山田郷は稲口いなぐち庄の一郷であった。慶長年間(一五九六―一六一五)の大島光義知行目録写(龍福寺文書)に山田村六四六石余とあり、江戸初期には関藩領、同藩の廃藩により旗本の関大島家領となるが、寛永一四年(一六三七)絶家によって収公された。


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[現在地名]天理市山田町

福住村東方に所在。「経覚私要鈔」宝徳四年(一四五二)四月三日条の、興福寺大乗院門跡経覚が室生寺から奈良へ帰る途次の記事に「自山田辺山田者共出送了、新兵衛山田一族也、来而於田原出酒以下之間、入輿大刀アヲ井、遣新了、畏申者也、山田者共至八峯山来了」とあり、「大乗院雑事記」康正三年(一四五七)四月二八日条にみえる興福寺大乗院方国民山田氏が当地にいたものと考えられる。


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[現在地名]辰口町山田

三ッ屋みつや村の北、手取川下流南岸に位置する。もともと手取川対岸の山田先出やまだせんでん(現川北町)と一村で、集落は現在の手取川中ほどにあたる古屋敷ふるやしきの地にあったが、出水により二村に分れたという(能美郡誌)。天文一五年(一五四六)六月一八日の西泉等公用算用状(石清水文書)に「山上郷山田」とみえ、同一四年分の臨時支出として当地の長衆新右衛門尉の香典一〇〇文が計上されている。


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[現在地名]真壁町東山田ひがしやまだ

筑波山北麓に位置し、東は羽鳥はとり村、西は椎尾しいお村。中世は真壁氏の支配下にあり、寛喜元年(一二二九)の藤原氏女宛将軍藤原頼経袖判下文(真壁文書)

<資料は省略されています>

とあり、山田郷の地頭職が真壁入道の妻女に安堵されている。弘安大田文には「山田二十二丁」とあり、観応三年(一三五二)一二月二三日の真壁光幹相伝状(真壁文書)にも郷名が載る。

慶長一一年(一六〇六)浅野氏領、元和八年(一六二二)笠間藩領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。


山田村
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[現在地名]加賀市山田町

橋立はしたて台地のほぼ中央、大菅波おおすがなみ村・小菅波こすがなみ村の北に位置する。京都北野社領福田ふくだ庄の内。弟幸千代に敗れ越前に逃れていた富樫政親は、文明六年(一四七四)越前吉崎よしさき(現福井県金津町)の蓮如に「御門徒人ニ被仰付、加州山田ヘ被入」(天正三年記)と依頼したという。この前後に蓮如によって山田坊が開創されたと伝え、文明一八年と推定される正月二八日の御文(呉羽大徳寺文書)に山田光闡こうせん坊が江沼郡中として取立てられたことがみえ、この頃蓮如の四男光闡坊蓮誓が入寺し、光教こうきよう寺と号する。


山田村
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[現在地名]南部川村晩稲おしね

熊岡くまか村の北にある大村。東部はゆるやかな丘陵が続く。村内は上下に分れていたらしく「続風土記」は「村中上村下村と分るといへとも家居は雑れり」と記す。古代の条里制の遺名と思われる森坪もりがつぼの地名がある。応永二年(一三九五)四月二〇日付の南部庄山田村年貢銭送文(続宝簡集)があり、高野山蓮華乗れんげじよう院年貢銭として一五貫文を送っている。慶長検地高目録によれば村高七三一石余、小物成二斗九升六合。宝暦一〇年(一七六〇)の南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)によると村高は慶長検地高目録とほぼ同じで、そのなかには茶九斤半分の五斗七升が含まれている。田畑六八町五反余、家数四二で内訳は庄屋・肝煎各一、御役家一二、無役家二八、人数四二一(男二二五・女一九六)、牛二二、馬一二、池六。


山田村
やまだむら

[現在地名]山崎町山田

山崎城下の東隣に位置し、北は今宿いまじゆく村。天正一五年(一五八七)龍野城主木下勝俊は山崎村に新町を申付け(一一月一六日「木下勝俊判物」山崎八幡神社文書)篠の丸ささのまる山南麓西の山崎村および東の山田村の地に山崎町・山田町を一筋とする町並をつくった。城下が整備されるのに伴い町場に居住していた農民を当村へ移住させたため、農人のうにん町・町ともよばれた。慶長国絵図では山田町の東に「同村」とみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。郷帳類では門前もんぜん村とともに山崎村に含まれていた。下村氏手控帳を寛保三年(一七四三)に写した西村氏手控帳(西村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には高四二〇石余、四ツ成高五一四石余、田一三町九反余・畑二町八反余、小物成銀一八匁余(茶役一七匁余・漆役六分余)、家数一七・人数一六六、牛九。


山田村
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[現在地名]磯部町山田

川と山田川の流れ込む微高地上にあり、北は沓掛くつかけ村に接する。両川は集落の南で合流し小さな沖積低地を形成している。「志陽略誌」には「中世割上之郷沓掛山田二村」としている。字小海おかいにある鶏栖とりす亭跡は室町時代の住居跡で、面積一千八〇〇平方メートルあり、俗に長官屋敷と伝承され内宮権禰宜伊雑宮宮司荒木田匡興の邸跡と伝えている(志摩国旧地考)

近世を通じて鳥羽藩領で答志とうし郡に属した。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によると、高三三七・二四九石のうち山年貢三石、夫米一二・六六九石が寛文四年(一六六四)から定引となり、反畝不明の無地六・八七斗がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]小野市山田町・匠台たくみだい大開町だいかいちよう

太郎太夫たろうだゆう村の東、加古川左岸に位置する。村域の中央を加古川の小支流山田川が流れ、流域の狭小な耕地を挟むように丘陵地が広がる。集落は川上から大上おおかみ船付ふなつき・中山田・下山田に分散し、村域の東西は約三キロ。「播磨国風土記」賀毛かも郡の条にみえる山田里の遺称地とされる。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方三四二石余・畑方二五石余。天保郷帳では高五二九石余で、石高の大幅増がみられる。これは天保三年(一八三二)太郎太夫村の近藤亀蔵が山田川上流の谷間の地につる池・かめ池を築造したことによる。


山田村
やまだむら

[現在地名]青谷町山田

亀尻かめじり村の南、勝部かちべ川の支流山田川流域の小河谷に位置する。拝領高は二七九石余、本免は六ツ一分。藪役銀一〇匁三分五厘が課せられ(藩史)、足立氏・鷲見氏・東館家家臣可児氏・西館家家臣景山氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三七。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高三一〇石余、竈数二六。河原かわら村・山根やまね村で漉いていた御用紙に用いる楮の産地で、年貢の一部は楮請米として翌年五月までの延納が認められていた。万延二年(一八六一)異国船渡来の折に青屋あおや御蔵の蔵米を大坪おおつぼ村へ移すための駆付民夫七人の徴用が割当てられた(以上「在方諸事控」)


山田村
やまたむら

[現在地名]東伯町山田

公文くもん村の南、あらい川上流の谷間に位置する。村域は洗川左岸の西山田と右岸の東山田一帯。正保四年(一六四七)倉吉在勤の藩士小谷太兵衛が著したとされる瑞夢記(転法輪寺蔵)に「長月初に山田村大杉野を見めぐり野田村へ打越ぬ」とある。拝領高は三七四石余。藪役銀五匁を課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高四一四石余、竈数三四。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数三四で、うち余業二〇(木挽・炭焼・飼博労各三など)


山田村
やまだむら

[現在地名]精華町大字山田

木津きづ川支流山田川が東流し、大坂街道が走る。戦国時代には戦場となり、「多聞院日記」永正四年(一五〇七)一〇月一日条に「今日自此方木津・山田辺被取懸了」、同六日条に「今日山田辺差懸、内堀父子・藤兵衛以下合侍分十七人打取、則山田・相楽以下(陣)破了」と記される。

江戸時代に入り、寛永一三年(一六三六)一一月九日付の徳川家光領知朱印状(石清水文書)によれば、山田村の六三石が石清水いわしみず八幡宮橋本坊に安堵されているが、享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳によれば、高五二七・三九六石、知行の内訳は禁裏御料(宝永二年の増御料)九〇石余、旗本大岡弥太郎四三六石余となっている。


山田村
やまだむら

[現在地名]双葉町山田

前田まえだ川中流にあり、東は前田村、北は明暦二年(一六五六)に分村した松迫まつざく村、西は元禄一〇年(一六九七)分村した石熊いしくま村。中世の標葉十三党(六旗七人衆)の一人山田和泉守光秀がこの地に住していたと伝える(奥相志)。相馬氏領となり山田氏は行方なめかた石上いしがみ(現原町市石神)に領地替となり、石上氏を称したという(東奥標葉記)。寛永一六年(一六三九)の検地高一千五四石余、明暦二年松迫村を分村し、同年の高一千一五三石余(相馬藩政史)。正保郷帳では田方五八六石余・畑方一七九石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]東金市山田・季美の森東きみのもりひがし

小野おの村の西に位置し、東金道が通る。天正一九年(一五九一)の山田村検地帳(断簡、鈴木家文書)が残る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七六石。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道作帳に村名がみえ、六〇間を負担している。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では東金組に属し、旗本青木領三〇〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三二九石余、家数六〇、幕府領・旗本青木領。旧高旧領取調帳では青木領。


山田村
やまだむら

[現在地名]長野市大字稲田いなだ

稲積いなづみ宿の西南、あさ川の北にあり、東は富竹とみたけ村と、西は檀田まゆみだ村と、南は吉田よしだ村と浅川で、北は徳間とくま村と用水路で境する。

天正七年(一五七九)正月の諏訪社下社の下諏訪春宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に、「外籬廿間 若槻庄之内(中略)真弓田郷・山田之郷」とあるように、中世に若月わかつき庄内の郷村であった。同一〇年七月の島津忠直あて上杉景勝の朱印状(覚上公御代御書集)にも、「百貫文 若槻之内山田郷」とある。村名としての初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「二百壱石六升七合 山田村」とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]南知多町豊丘とよおか 本郷ほんごう新屋敷しんやしき

師崎もろざき街道を乙方おつかた村から山越しに五町ほど入った山間にある。東・西・南の三方は丘陵で、ことに南は八〇―一〇〇メートル前後の山が続き、川が源を発し北流して乙方村で海に注ぐ。「寛文覚書」によれば、概高三〇八石余、田地一七町六反一畝余、畑地一三町五反三畝余、戸数三五、人口二八五。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出すとある。「徇行記」によれば「竹木茂リ村立大体ヨキ所」で「山畠ニハ茶園モ少シアリ」といい、支邑新屋敷は承応二年(一六五三)に開かれ、当時は高木志摩の給知で、民家をここに移し蜜柑を多く栽培させた。


山田村
やまだむら

[現在地名]池田町山田

山田川が本流の魚見うおみ川に注ぐ付近の山際、寺谷てらだに村の南にある。水海みずうみ鵜甘うかん神社内にあった賀宝かほう五所社の至徳三年(一三八六)の棟札写(田中家文書)に「時分宮官山田ノ住弥五郎平重嗣」と地名がみえる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に高二四五・一三石とあり、正保郷帳によれば田方一六七石余・畠方七七石余。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)によれば、反別一七町八反余(うち田地一二町六反余)で、うち七町余りが川沿いを避けた大谷おおたん小谷こたんにある。


山田村
やまだむら

[現在地名]岩出町山田

根来ねごろ山の南麓に広がる。東は北大池きたおおいけ村。南部を淡島街道が通る。「続風土記」は「山麓の田畑なるを以て名つく」と記す。慶長検地高目録によれば村高一一三石余。文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田六町一反余で高一一二石余、畑一反余で高一石六斗余。二歩米二石二斗七升三合九勺でこの銀一三七匁四分二厘。御種借米は元米四石五斗四升八合でこの利米九斗九合六勺となっている。家数八(庄屋・肝煎・歩行各一、本役二、半役三)、人数三一(男一六・女一五)、牛三。おくノ池があり、水掛り高八五二石余でうち七二石六斗余が当村分。


山田村
やまだむら

[現在地名]北区山田町・山田北やまだきた町・山田西やまだにし町、東区山田東やまだひがし

東を矢田やだ村と接し、東北境に矢田川が流れている。当地は山田郡の郡名、そして山田庄の荘名発祥地といわれている。正倉院文書の「造寺所公文」の「勘籍」のなかに「郡造族足嶋年廿八尾張国山田郡山田郷戸主郡造族石勝戸口」とある。建久元年(一一九〇)源頼朝が諸国地頭に未進米を督促した時、役夫工米の所課に応ぜず常陸に配流された尾張国の住人山田重隆(前佐渡守)は、当地の住人であったと考えられる(吾妻鏡)。万里集九の「梅花無尽蔵」に、

<資料は省略されています>

とあって、室町末期には市場があり、山田市場とよばれていたことが知られる。


山田村
やまだむら

[現在地名]大子町山田

久慈川の支流おし川の中流域にあり、北ははなわ村。「新編常陸国誌」に「奥州八槻大善院文書ニ、永享二年正月、白河ノ結城氏朝ノ寄進状アリ、其状ニ寄進近津宮依上保内山田村分銭七貫文右寄進状如件トアリ」と記され、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「山田村」とある。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)の検地では田畠六一町余、分米五六四石余であった。

天保二年の藤田東湖の「巡村日録」(水戸藤田家旧蔵書類)に「山田より栃原の途中深沢みさはと云杉御立山あり一万余本ありと云」とみえる。


山田村
やまだむら

[現在地名]神崎町山田

なか村の北東に位置し、越知おち川の下流域、笠形かさがた(九三九・四メートル)の山麓に立地する。神東じんとう郡に属した。正保郷帳に村名がみえ、田方三八三石余・畑方四三石余、「柴山有」と注記される。天保郷帳では高四六五石余。領主の変遷は粟賀あわが村と同じ。宝永五年(一七〇八)の口上書(神崎郡誌)に「悪田多く(中略)惣作大分出来」などとあるように農作不振で、同七年の一揆では次郎左衛門・加右衛門が打捨てとなった(「犬見村庄屋日記」大中家文書)


山田村
やまだむら

[現在地名]湯浅町山田

青木あおき村の東、山田川の谷間上流に位置する。北は熊井くまいおき両村(現吉備町)、東は糸川いとがわ(現金屋町)と山嶺で境する。集落は南谷みなみだに北谷きただに平野ひらのの三つに分れる。北谷と南谷の合流地に張出した丘陵部の中腹、山田川流域の渓谷を見渡せる展望の広い所に古瓦が散布する。平安時代より室町時代頃にわたるもので、寺跡と思われるが寺名は不明。南谷にある証大しようだい(浄土真宗本願寺派)に至徳四年(一三八七)一一月八日建立の板碑があるが、現湯浅町域最古のもの。


山田村
やまだむら

[現在地名]喜界町山田

羽里はあーと村の東に位置し、百之ひやくの台の西麓に立地する。わん間切のうちで、元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に湾間切与人のとして「山田村」とみえる。享保三年(一七一八)頃山田溜池が造成されている(喜界島代官記)。天保年間(一八三〇―四四)の不作により百姓が村を離れ、八家が残るのみとなり、「禿村」となる恐れもあったが、早町そうまち村に住む禎民が喜界島代官所からその救済を命じられて移住、自費で農具を買入れ、また牛馬を貸渡すなど、農耕を督励して立直しを図り、二一家に増えるに至った。


山田村
やまだむら

[現在地名]久山町山田

犬鳴いぬなき山の南西、猪野いの川沿いに位置し、北東は猪野村、西は香椎かしい(現福岡市東区)。元亀二年(一五七一)九月一四日の領家勤仕神物社役注文案(三苫文書/香椎B遺跡)に「一於山田之郷つのりとして米五斗二升、左ノ伶(人)請取之、同定使米三斗請取之」とあり、同郷は香椎宮領として社役を負担していたことがわかる。年未詳八月一日付長門守某打渡状(冨来文書/大分県史料一〇)によれば、豊後国の国東の住人冨来彦三郎に「香椎郷之内山田之郷」二五町分が打渡されている。小早川時代の指出前之帳では山田村の田七二町四反余(分米八二〇石余)・畠一四町三反余(分大豆六九石余)


山田村
やまだむら

[現在地名]上田市大字山田

上田市塩田地区の南西にある集落。東は手塚てづか村、南は野倉のぐら村、西は別所べつしよ村、北は八木沢やぎさわ村と接する。

初見は、天正六年(一五七八)二月の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)で「九頭井御柱」の条に「小県郡塩田内」として「山田郷 九百文」とみえる。慶長九年(一六〇四)真田信之が日置五右衛門に塩田地方の肝煎を命じた文書(大鋒院殿御事蹟稿)に山田村がある。同一三年真田氏時代の上田領貫高帳(大井文書)に一二三貫一五〇文とあり、仙石氏時代に入った元和八年(一六二二)上田領高石帳(若林勅滋氏蔵)には、一二五貫六五〇文で高三一〇石三斗五升五合とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]矢部町山田

北ははる村、東は蘆屋田あしやだ村・長田ながた村に接し、日向往還旧道が通る。村内を瀬峰せみね川が流れる。字古閑原こがばるに縄文早期―弥生後期の山田遺跡がある。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「やまた」とみえ、貫高は八貫五〇〇文。文明一七年(一四八五)山田池(大久保溜池)東方の台地で阿蘇惟憲・相良為続軍と阿蘇惟家・菊池重朝軍の決戦が行われた。幕の平まくのだいら合戦あるいは馬門原まかどはら合戦ともよばれ、惟憲軍が勝ち家督と大宮司の地位を一体化した。


山田村
やまだむら

[現在地名]大東町山田

針江はりえ村の北東、あか川の支流山田川中流域に位置する。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高七一二石余、寛文四年(一六六四)の本田高六九七石余・新田高一石余。「雲陽大数録」では高三八〇石。「郡村誌」によると戸数一〇四(うち社一・寺一)・人数四四六、民業は農業八九戸・工業一二戸。岩根いわね神社は「妙見由来記」によると天平元年(七二九)に「信濃国樋浦郡芦原邑」より当村高峯に勧請、天禄年間(九七〇―九七三)に焼失し仁和寺にんなじ村岩根山に移ったが、永長年間(一〇九六―九七)再び当地に造営されたという。


山田村
やまだむら

[現在地名]本荘市内越うてつ 山田

南北に山を負う沢地に成立し、東西に帯状に細長い耕地があり、赤田あかだ村から流れる百部岡ほどおか堰が用水となる。東は赤田村、西は畑谷はたや村、南は福田ふくだ村、北は平岡ひらおか村と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)では内越郷に属している。寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写によれば二五七石二斗六升四合で、その納米は一四七石八斗九升七合であった。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)の村高は二二三石余で、畑は三石でほとんどが田である。


山田村
やまだむら

[現在地名]神岡町山田

山田川上流域に広がり、中央を越中東街道が縦断する。中世この地を治めた豪族江馬氏の入国は山田村で、その後殿との村に城郭を構えたと伝える(飛騨国中案内)。集落は上山田・下山田に分れ、下山田から杉越すぎこし(すりこぎ峠)を越えて東の吉田よしだ村へ出る。西は大笠おおがさ村、南は巣山すやま村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では高原山田たかはらやまだ郷に属し、「上山田村所々七村」とあり、田方二五八石余・畑方一七七石余、物成合八七石余。郷名や中心集落名となっていることから、古くよりこの流域地域の中心地であったことが推定できる。


山田村
やまだむら

[現在地名]春日町山田

三方を山に囲まれ南に谷が開ける。北は五大ごだい(五六九・二メートル)を隔てて白毫寺びやくごうじ(現市島町)、南は古河ふるかわ村・新才しんさい村。領主の変遷は村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高八五石余・畠高三〇石余、芝山あり、日損少し。元禄郷帳では高一一八石余。「丹波志」によると今高一八〇石余、家数四五。天保郷帳では高一八二石余。天和二年(一六八二)より野山役は旗本水野家へ米納(鶴牧藩大概帳)


山田村
やまだむら

[現在地名]鶴岡市山田

境興野さかいこうや村の西にあり、西は大山おおやま村。地名は和銅年間(七〇八―七一五)に近江国より移住してきた人々が、故郷の地名を付けたものとも伝えられる(「白鬚神社由来記」大泉村史)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高六四七石余。同年の庄内寺社領目録によれば、ほかに金峯きんぼう領二石余がある。寛永元年庄内高辻帳では田川郡に属し、高六五三石余。寛永三年庄内高辻帳では高六四八石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]北浦村山田

北浦西岸、山田川の河口にあり、西は高岡たかおか村。中世は武家たかべ(武井)郷に属し、嘉元四年(一三〇六)一二月二〇日の関東下知状案(鹿島神宮文書)に「山田郷地頭牛熊丸行方与一太郎幹貫」とあり、応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「やまたの津たけた知行分」と地名が記される。

戦国末期に佐竹氏領となり、同氏秋田移封後は仁賀保氏領・皆川氏領を経て天領・旗本領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)


山田村
やまだむら

[現在地名]日田市山田

小迫おざこ村の北に位置する。豆田まめだ町から当村とその西方の田代たしろ峠を越えて豊前小倉に至る道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田高二二五石余・畑高二九六石余で、曰理わたり郷に属し、茅山有、日損所と注記される。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免二ツ五分四厘で、永荒一二三石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高三八〇石余、新田畑四石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]三重町久田ひさだ 山田

玉田たまだ村の南西、玉田川東岸にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ、高四一六石余。上ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二九六石余・畑方一二〇石余、日損所と注記される。正保郷帳には記載されず、中尾なかお村分に含まれる。文政六年(一八二三)には二分されて上玉田組と下玉田組に分属した(万用集)


山田村
やまだむら

中世の村。現川辺町上山田・中山田・下山田に比定される。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)に「かミやま」と「しもやまたのむら」がみえ、当時は上山田村と下山田村に分れていた。年未詳七月一〇日の河辺郡知行目録写(長谷場文書)に守護被官の所領として「山田之村 十八丁」、別府氏の所領として「大角之村 十八丁」がみえる。大角村の比定地は、大字下山田に大倉野おおくらのがあり、同地にあたるとみられる。また前掲千竈時家譲状に時家の次男経家に譲られた「ちしのむら」がみえ、前掲河辺郡知行目録写では別府氏の所領として「地子之村 八丁」が記されている。地子村の比定地はその記載順からして上山田・中山田・下山田のうちとみられ、当初の山田村は知行目録当時の山田村・大角村・地子村に相当すると考えられる。


山田村
やまだむら

[現在地名]黒部市山田

十二貫野じゆうにかんの台地の南西端に位置し、東は中陣なかじん村、南は布施ふせ川を挟んで蛇田へびた(現魚津市)。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高二六九石余、田方一六町九反余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一一石、同四年の新開高一五石で計三二六石、免五ツ八歩、小物成は山役二六匁・蝋役九匁・鮭役一一匁八分・鱒役七分・鮎川役五匁(三箇国高物成帳)。元禄九年(一六九六)布施川の大洪水により八九石の引高があり、正徳元年(一七一一)から九度の手上高により天保一一年(一八四〇)の草高三〇七石余(「高免帳」杉木家文書)


山田村
やまだむら

[現在地名]丸森町舘矢間山田たてやまやまだ

大蔵おおくら村の東、東流する阿武隈川の左岸に位置する。東は舘山たてやま村、北は小田おだ(現角田市)、対岸は丸森村。天文七年(一五三八)の段銭古帳の伊具庄のうちに「四貫八百七十五文 山田のかう」とある。正保郷帳に山田村とあり、田二三貫七六一文・畑四貫三三〇文。「安永風土記」では田二六貫六一四文・畑五貫五二八文で、蔵入六八三文、ほかはほとんどが角田石川氏の所領であった。


山田村
やまだむら

[現在地名]西区山田町

おにじよう山の北麓にある山間の小村。天正一九年(一五九一)一〇月二六日付の厳島社領安芸国佐西郡山田古帳辻検見帳(野坂文書)に「合田数弐町弐反三十歩、分銭六貫八百八十目ノ辻也、右之当納合三石壱斗三升定」「一此田御検地ならはの見合内儀覚之事、以上合田数弐丁九段半六十歩、分米拾壱石弐斗五升定」とみえ、厳島神社領であった。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高八三石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]佐久市大字常和ときわ

現佐久市の南方に位置し、山をもって現南佐久郡臼田うすだ町と境を接する。田子たこ川を挟んで北沢きたざわ村に対する。東は山、西は水田地帯である。

嘉暦四年(一三二九)諏訪社上社の頭役の結番を定めた下知状案(守矢文書)に「佐久郡内長針地頭山田郷地頭等」と記す。

慶長一五年(一六一〇)の貫地帳(竹内文書)に「九拾六貫八百文 山田村、九貫五百文 同前山田村」と記す。また元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)に高一七〇石を記す。


山田村
やまだむら

[現在地名]総社市山田

久代くしろ村の西に位置し、村の中央を山田川が南流、南端を新本しんぽん川が東流する。吉備津神社の流鏑馬料足納帳によれば寛正六年(一四六五)分として山田は三貫文を納め、うち二貫五〇〇文を直納、五〇〇文が地下徳分とある。なお九条家文書の嘉吉三年(一四四三)一二月一七日の河西満秀去渡状などにみえる上原かんばら郷公文であった山田入道は当地に勢力を有していた者か。寛永備中国絵図では高六一三石余で成羽藩領。正保郷帳では松山藩領、枝村に花光寺かこうじ村を記す。


山田村
やまだむら

[現在地名]佐用町山田

佐用さよ村の西、標高約二〇〇メートルの山地に立地する。古代―中世の美作道は通称山田の坂を越え、中山なかやま(現上月町)へ至る。北方は標高四〇〇メートル級の山地が続く。慶長国絵図に山田村とみえる。江戸期の領主の変遷は当初佐用村に同じ。寛永一七年(一六四〇)旗本松平(松井)隼人佐康紀領となる(「寛政重修諸家譜」など)。このうち一部は正保二年(一六四五)赤穂藩領、元禄一四年(一七〇一)幕府領(同書など)と変遷後、享保二年(一七一七)安志藩領となり幕末に至る(「小笠原家譜」東京大学史料編纂所蔵)


山田村
やまだむら

[現在地名]山形市蔵王山田ざおうやまだ

成沢なりさわ村の南に位置し、りゆう山西斜面の丘陵中腹に立地。瀧山の堂塔で働いていた庭渡人の村と伝える。最上氏改易後は山形藩領、延享三年(一七四六)下総佐倉藩領、翌四年陸奥棚倉藩領、宝暦一三年(一七六三)再び佐倉藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高三九九石余。同一六年の定納一紙(佐藤文書)では高四二五石余、村内反別田六町七反余・畑一六町五反余(うち屋敷地一町六反余)、ほかに成沢・半郷はんごう二ヵ村に出作地九町一反余があった。


山田村
やまだむら

永仁五年(一二九七)八月日の御所大番役定書案(九条家文書)に「かけやまの山たむら」とみえ、当村には正月の御所大番役が賦課されていた。南北朝期には当村も武士の侵略を受け、観応二年(一三五一)足利義詮は播磨国守護赤松則祐に雑掌への沙汰付けを命じている(同年一〇月二七日「足利義詮御判御教書」冷泉家文書)。応永三年(一三九六)四月日の九条経教遺誡(九条家文書)では当村は兼邦に与えられているが、同年一二月二五日の九条経教遺誡(同文書)では経教没後兼致に与えるとされた。同三二年九月日の蔭山庄惣田数注文案(同文書)によると、田数は一二町四五代一八歩であった。


山田村
やまだむら

[現在地名]寺泊町山田

現寺泊町の南端に位置し、西山丘陵を背後にかかえた海岸集落。耕地は海岸部にはほとんどなく、東のみようだに村に通ずる狭い谷間に展開する。正保国絵図に高一一九石余で幕府領。慶安二年(一六四九)以降明治に至るまで村上藩領。農業以外には製塩と沿岸漁業も行っていた。製塩業については、文政七年(一八二四)の御案内帳(原田仁一郎家文書)には、塩浜野手高二七石と高七斗余と高一〇石の塩釜高の記載がある。しかし海岸丘陵に特有の塩風が強いために樹木の育ちが悪く、塩焼用の薪に不足し、坂谷さかや村・梅田うめだ(現和島村)の野手山に定請地を得て、毎年塩五石を両村へ渡していた。


山田村
やまだむら

[現在地名]海南市山田

西を大野中おおのなか村、東を幡川はたがわ村に挟まれた東西五〇〇メートル余、南北二キロの小村。名草なくさ郡に属し、村の大部分は藤白ふじしろ山系の北斜面にあって、ほとんど平地をもたない。中世には幡川村に属していたと考えられる。天正一七年(一五八九)一二月二一日付の御薬師書出地帳(禅林寺文書)に「山田ソノ」「山田」の地名がみえる。慶長検地高目録では独立村となっていないが、「続風土記」は村高五〇・七五二石、家数四、人数二二を記す。


山田村
やまだむら

[現在地名]下関市大字山田

現下関市の東部にあたり、村の南部を員光かずみつ川が西流する。南は員光、北は阿内おうち、東は清末きよすえ、西は井田いだの各村と接する小村で、長府藩領東豊浦郡奥支配に属する。

応永三〇年(一四二三)二月二五日の中村専阿書状写(長門一宮住吉神社文書)に「山田」の地名がみえる。天文一二年(一五四三)六月の大徳寺文書に「長州山田村包光名」とみえ、包光名は京都竜翔りようしよう寺の寺領であった。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳に「山田村」とあり、総石高五八九石余、うち田三六町余で五六六石余、畠四町余で一三石余、百姓屋敷二三。


山田村
やまだむら

[現在地名]竹田市川床かわとこ

玉来たまらい川中流にあり、南東の下流は漆迫うるしざこ村、北西は紙漉かみすき村。正保郷帳では矢倉やぐら郷に属し、田方四九石余・畑方二六石余。元文四年(一七三九)の検地帳(北村家文書)によれば百姓九人、田方四町二反余・分米四四石余、畑方四町六反余・分米二五石余、屋敷二反余・分米二石余。弘化物成帳では穴井迫組のうち、村位は中、免七ツ二分、田四四石余(四町二反余)・畑二五石余(四町六反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑九斗余(一町六反余)がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]昭和町豊川山田とよかわやまだ

ゆたか川の中流右岸、竜毛りゆうげ村の北の狭小な山間の小村。古館ふるだて跡があり、秋田実季の家臣が住したという(秋田風土記)

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に山田村一四五石とみえ、享保七年(一七二二)の秋田郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県立博物館蔵)には当高一七四石五斗六合とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳には当高一七三石六斗五升四合、うち給分一六七石六斗九升二合とあり、家数は享保一五年の「六郡郡邑記」に二六軒とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]北房町山田

五名ごみよう村の東に位置し、落合おちあい往来が通る。五名村と合せて五名山田村とも称された。寛永備中国絵図・正保郷帳の水田みずた村に含まれ、正保郷帳に載る水田村の枝村下水田村の一部や、美作国境にあるさかい村を含む。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)に水田山田村とみえ、古高八二五石余・新高一千一一六石余。


山田村
やまたむら

[現在地名]日高町山田

栗栖野くりすの村の西、神鍋かんなべ台地の北西に位置する。江戸時代の領主の変遷は頃垣ころがき村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一六五石余。以後幕末まで高に変化はない。出石封内明細帳では田方一六一石余・畑方三石余。小物成は山手米・刈畑米・桑代真綿など。


山田村
やまだむら

[現在地名]君津市吉野よしの

たき村の南西方、小櫃おびつ川支流御腹おはら川の中流左岸に位置する。元禄郷帳に村名がみえ、高四石余。天保郷帳・旧高旧領取調帳では高二五石余。貞享元年(一六八四)には上野前橋藩領で(「酒井忠挙領知目録」酒井家文書)、延享三年(一七四六)には久留里藩領(「久留里藩領知目録」久留里藩制一班)


山田村
やまだむら

[現在地名]加治川村下山田しもやまだ

鳥屋とやノ峰の西麓にあり、北は住田新すみだしん村。正保国絵図に村上藩領として村名が載る。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では川尻組に属し、延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)には高一二六石五斗余・反別一〇町九反余、家数八・人数五三とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]犬飼町高津原こうづはる 山田

高津原村の西、大野川の支流柴北しばきた川北岸にあり、西は黒松くろまつ村。文禄二年(一五九三)以後岡藩領。正保郷帳に村名がみえ、井田いだ郷に属し、田高九五石余・畑高二三石余、柴山有と注記される。旧高旧領取調帳では一一三石余。安永七年(一七七八)には柴北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


山田村
やまだむら

[現在地名]織田町山田

織田盆地北方山麓にあり、東は細野ほその村、南は赤井谷あかいだに村。享禄元年(一五二八)一一月二八日付織田寺々庫収納田数帳(劔神社文書)に「惣社家細分」として「七斗五升 山田ニ在之 朔弊田」と記され、つるぎ大明神領に含まれていた。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「山田村」高七九・八四石と記され、正保郷帳によれば田方六六石余・畠方一三石余。


山田村
やまだむら

[現在地名]綾部市八津合やつあい町 山田・竹原たけはら

上林かんばやし川中流域、左岸の段丘に位置する。南は大栗おおくり(大国峠)を越え船井郡粟野あわの(現和知町)に通ずる。東北は瀬尾谷しようだに村、西北は馬場ばば村。

中世は上林庄の地。村名は勧進奉加帳(光明寺文書)の天正一七年(一五八九)分に「山田 こゑたわのうは」とあるのが早い。


山田村
やまだむら

[現在地名]市原市山田

松崎まつざき村の西、養老ようろう川左岸に位置する。「和名抄」上総国市原郡山田郷の遺称地とされ、中世には山田郡ともみえる。文禄三年(一五九四)八月検地があったとされ(上総国町村誌)、同年の上総国村高帳に村名がみえ、高三八八石。寛永二年(一六二五)知行宛行状では村内一三〇石余が旗本建部領。正保国絵図では高三八八石余であるが、元禄郷帳では高三六八石余で、幕末まで同様。


山田村
やまだむら

[現在地名]三田市山田

桑原くわばら村に西・南・東を囲まれた村。中央を武庫むこ川支流の山田川が南流する。大部分は山田川流域の谷間に開けた傾斜地に立地する。慶長国絵図に山田村とみえ、高二九三石余。正保郷帳では高三六九石余。天保郷帳では高三八二石余。かん神社は社蔵の感神社由緒并御当帳によれば、当村の産土神として春日明神を祀ってきたが、大永元年(一五二一)牛頭天王と八幡神を勧請、合祀して感神社と称した。


山田村
やまだむら

[現在地名]棚倉町山田

岡田おかだ村の東、阿武隈高地西端部の山間に立地。村内を久慈くじ川支流大草おおくさ川が流れる。縄文時代のすぎいり遺跡がある。永正七年(一五一〇)三月一〇日の結城政朝書状(八槻文書)に「いやまた」とみえ、当地内に比定される。


山田村
やまたむら

[現在地名]八王子市山田町・散田町さんだまち二丁目・めじろ台めじろだい

散田村の南東にあり、北は新横山しんよこやま村など。当村は村全体が広園こうおん寺領で、散田村内として扱われることもあった。天正一九年(一五九一)一一月「多麻郡山田村」内の一五石が「広円寺」に与えられ、寛文五年(一六六五)にも安堵されている(御朱印帳)。田園簿に村名の記載はなく、散田村の項に広園寺領一五石とある。


山田村
やまだむら

[現在地名]姫路市林田町山田はやしだちようやまだ

奥佐見おくさみ村の北西に位置し、村の西を林田川が南流する。揖東いつとう郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)鵤藩(のち新宮藩)領となる(元和三年「揖東郡郷帳」池田家文書など)。寛文一〇年(一六七〇)幕府領(「池田家系譜」同文書)、同一二年龍野藩領となり幕末に至る(貞享元年「脇坂淡路守領知目録」脇坂家文書など)


山田村
やまだむら

[現在地名]笹神村上山田かみやまだ

山寺やまでら村の北西にあり、北西は七浦ななうら村、西は小中山こなかやま村と接する。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では大室組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高一九石四斗余。


山田村
やまだむら

[現在地名]日吉町山田

日置村の北西に位置する。中世には日置北ひおきほく郷・日置庄に含まれ、山田氏が城山じようざんの麓にあった日置城(松尾城)に居城していた(三国名勝図会)。天文二年(一五三三)山田久親は島津忠良に日置を献じたが殺害された。しかし子有徳は山田の領知を認められ、子孫は島津氏の家臣となっている(「島津日新譜」旧記雑録)


山田村
やまだむら

[現在地名]竹田市植木うえき

笹無田ささむた川最上流の山間にある。「豊後国志」は山口やまぐち村とし、田平たびら村の枝郷とする。正保郷帳に山口村とあり、長田ながた郷に属し、田方一二石余・畑方四石余で、茅山有と注記される。


山田村
やまだむら

[現在地名]竹田市門田もんでん

緒方おがた川上流左岸にあり、北は篠尾ささのお村。正保郷帳では倉木くらき郷に属し、田方一四石余・畑方七石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では門田組のうち、村位は中、免六ツ九分、田一七石余(一町七反余)・畑一二石余(二町二反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田三斗余(一反余)・開畑一石余(二町六反余)がある。


山田村
やまだむら

[現在地名]三角町郡浦こおのうら

郡浦村の北東にあり、四方山野に囲まれ、南西に郡浦川が流れる。山田日平やまだひびらなどの字地がみえる(郡村誌)。応永一一年(一四〇四)一〇月一〇日の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)に「山田」とみえ、郡浦庄に属した。近世は郡浦手永に属し、郡浦村より分村したと思われるが年不詳。


山田村
やまだむら

[現在地名]五條市山田町

吉野川西方、西阿田にしあだ村とはら村の中間に位置。慶長郷帳の村高一〇六・四九石。五条二見藩(松倉重政)領。元和二年(一六一六)松倉氏の島原しまばら(現長崎県)への転封で幕府領(代官宗岡弥右衛門)に編入。


山田村
やまだむら

[現在地名]瑞穂町山田

出羽いずわ村の南および東に位置し、出羽川支流の山田川・黒坊くろんぼう川が北流する谷間の村。江戸初期に八日市ようかいち村から分村。正保四年(一六四七)の古田領郷帳に山田村とみえ、高一七一石余、免三ツ五分。


山田村
やまだむら

[現在地名]篠山市山田

小立おだち村の北にあり、大芋おくも川が流れる。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「山田村」とみえ、高一三三石余。正保郷帳では田高一二〇石余・畠高一〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では向井組で、家数二六・人数一一八。


山田村
やまだむら

[現在地名]渥美町山田

渥美町の中央、はたケ村の東南方山間部にある。四周に泉福せんぷく寺領林五万四千一六九平方メートルの山林があった。天保五年(一八三四)の郷帳に高一二二・〇三石とあり、これは慶長八年(一六〇三)以来の朱印地高に新開墾分を加えたもので、全村が天台宗泉福寺領として明治まで続いた(寛文朱印留)


山田村
やまだむら

[現在地名]下館市西山田にしやまだ

東は盛添島もりそえじま村、西は下江連しもえづれ村。元禄郷帳の村高は七七石余で、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には「高七拾七石六斗六升三合、鎮守天神、家数六軒、松前左近知行所」とあり、旗本領であった。


山田村
やまだむら

[現在地名]新庄町大字山田

林堂はやしどう村の西、葛城山麓傾斜地の村落。江戸時代初期、福島兵部領。村高は二〇七・一八石。寛永一〇年(一六三三)、旗本佐久間実勝領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山田村の言及

【総社[市]】より

…岡山県南部の市。1954年総社町と阿曾(あぞ),池田,久代(くしろ),山田,新本(しんぽん),常盤の6村が合体,市制。人口5万6097(1995)。岡山平野北西部と吉備高原南部を占め,高梁(たかはし)川が南流する。岡山市とともに古代吉備文化の中心地で,作山(つくりやま)古墳,備中国分寺(江戸時代の再建),備中国分尼寺跡,備中国府跡,備中総社宮などがあり,岡山市西部とまたがる吉備路風土記の丘県立自然公園に指定されている。…

※「山田村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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