日本歴史地名大系 「山口村」の解説
山口村
やまぐちむら
- 長崎県:佐世保市
- 山口村
江戸時代は平戸藩領相神浦筋郡代の管轄下で、中里村を
山口村
やまぐちむら
〔中世〕
平安時代末期から鎌倉時代にかけて当地を含む一帯は山口庄といった。同庄は池大納言平頼盛の所領で、寿永二年(一一八三)七月の平家の都落ちにより没官された。しかし頼盛は都落ちに同行せず、後白河法皇、次いで源頼朝に庇護を求めた。頼朝は、頼盛の生母池禅尼にかつて助命された恩義に報いるため、いったん没官された頼盛の家領三四ヵ所を、翌寿永三年四月五日返却した。その目録中に「山口庄 但馬」が含まれる(「吾妻鏡」同年四月六日条)。ところで山口庄は、もと但馬国住人山口家修の所領であったようである。家修は源頼義に仕え、保元三年(一一五八)二月日の下文によって数ヵ所所領を拝領したが、平家に奪われてしまった。
山口村
やまぐちむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「山口 弐百七十四石三斗四升」とある。
山口村
やまぐちむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九〇〇石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ七分、家数七一(役家二五、肝煎三、諸職人・寺・山伏・脇家四三)、人数一九五、役木として桑と楮少しがある。米沢藩領時代の古高二千二一八石余、幕府検地による新高一千四六九石余(古高新高帳)。貞享三年(一六八六)福島藩領、元禄一三年(一七〇〇)幕府領、同一五年から幕末まで福島藩領。
山口村
やまぐちむら
安岐川の支流
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 千葉県:成田市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
文化二年(一八〇五)の下長井村々大概帳(上杉家文書)によると桑・楮・杉・桐などの苗木を栽培していた。
山口村
やまぐちむら
- 岩手県:宮古市
- 山口村
宮古村の北、
山口村
やまぐちむら
- 愛知県:瀬戸市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
- 長野県:木曾郡
- 山口村
木曾郡の最南端、岐阜県境にあり、
木曾川左岸の段丘上に旧山口村の集落が散在し、昭和三三年(一九五八)中津川市との合併問題がもつれて、分村合併した
山口村
やまぐちむら
- 千葉県:東金市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
- 山形県:天童市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
現若宮町の北端、
山口村
やまぐちむら
- 佐賀県:伊万里市
- 山口村
文政二年(一八一九)の肥前国松浦郡山口村明細帳に「一、山口村字古城と申所往古岸岳御城之波多三河守様家候の鶴田善助と申人居城之由ニ而家々唱来申候」とある。地元の人が「じょうののつじ」とよぶ高さ一六〇メートルの山城跡で、空堀跡といわれる凹地が残っており、字名を
山口村
やまぐちむら
- 島根県:大田市
- 山口村
三瓶山の北麓、
山口村
やまぐちむら
寛文四年(一六六四)国境番所として犬挟峠の近くに番所が設置されたが(寛永九年設置の説もある)、享保一〇年
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 徳島県:阿南市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 岐阜県:高山市
- 山口村
高山町から野麦街道を一里の位置にある。西は
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 長野県:飯山市
- 山口村
村西方の山城跡は、南と北を外様平から富倉に至る二筋の道が通り、飯山―
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 栃木県:今市市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
慶長六年(一六〇一)に
山口村
やまくちむら
山口村
やまぐちむら
- 福岡県:筑紫野市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 岩手県:遠野市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
- 岡山県:笠岡市
- 山口村
慶長一六年(一六一一)より寛文一二年(一六七二)まで岡山藩主池田光政母福照院化粧料(「池田家系図」池田家文庫)。その後、庭瀬藩領・幕府領など数次の変遷を経て、元禄一二年(一六九九)以降は庭瀬藩領となり幕末に至ったと考えられる。
山口村
やまぐちむら
安蔵村の南、安蔵川の谷に位置し、同村の枝郷。本村のほか
山口村
やまぐちむら
- 新潟県:栃尾市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
嘉保二年(一〇九五)正月一〇日の大江公仲処分状案(「続群書類従」所収)に「山口御庄 在大和国」とあり、養和元年(一一八一)七月二五日大知事文慶等庄米進状(京都大学蔵大東家文書)に「進上 山辺郡内南郷山口庄米事」とある。また建暦二年(一二一二)二月二九日の藤原氏寄進状案(古簡雑纂七関白宣下拝賀記裏書)に「寄進 所領一処事 右大和国山野辺郡山口庄」とある。
慶長郷帳にみる村高七三七・六一石。慶長五年(一六〇〇)以降織田長益(有楽斎)領。元和元年(一六一五)有楽斎は四男長政・五男尚長にそれぞれ一万石を分知した結果、戒重藩(織田長政)領となる。
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 千葉県:市原市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
東は
寛政七年(一七九五)の「津軽の奥」に「山口てふ名聞えて黒き山あり。山口村に大槻一本あり、すなはち槻の明神とあがめまつる」とあり、嘉永三年(一八五〇)の「東奥沿海日誌」に「人家三十軒斗。
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 新潟県:糸魚川市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまのくちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 新潟県:柏崎市
- 山口村
東は
山口村
やまぐちむら
- 大分県:佐伯市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 愛知県:稲沢市
- 山口村
東は
概高二〇九石余で安藤吉左衛門の知行地。田地七町四反九畝余・畑地七町四反九畝余。隣村の
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
- 大分県:竹田市
- 山口村
山口村
やまぐちむら
山口村
やまぐちむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報