日吉町
ひよしちよう
面積:二九・二五平方キロ
日置郡のほぼ中央に位置し、東は松元町・伊集院町、北は東市来町、南は吹上町に接し、西は吹上浜に面する。町の中央部を南北に連なる山系が通っており、その東部は諸正嶽(二二一メートル)を頂点とする山地が続いている。町の中心部を大川が南西流し、川に沿って水田地帯が広がり、北部は台地畑が展開する。遺跡は大川下流域に集中しているが少ない。縄文時代は早期の押型文土器・塞ノ神式土器が吉利の六ッ坪遺跡で、晩期の土器が吉利の瀬戸口遺跡・六ッ坪遺跡で出土している。弥生時代前期後半から古墳時代にかけての集落跡が六ッ坪遺跡にある。弥生前期後半の円形住居の発見や、石に孔をあける石器などの出土は北九州との深いつながりを示している。また貯蔵穴と思われる穴も二基発見された。古墳時代の住居跡も二軒あり、平安時代の規模の大きな建物群も見つかっている。
古代は日置郡に属していたと推定される。中世の当町域はほぼ島津庄一円庄の日置北郷にあたる。同郷は文治三年(一一八七)平重澄によって摂関(近衛)家に寄進された。
日吉町
ひよしちよう
面積:一二三・八二平方キロ
船井郡中央部東側に位置し郡内では最も広域の町である。東西約一一キロ、南北約一〇キロで、東は北桑田郡京北町、南は八木町・園部町、西は丹波町、北は北桑田郡美山町に接している。町域は大別して二つに分れる。北西部は由良川の支流高屋川に注ぐ畑郷川の流域一帯で、胡麻高原とよばれる。残り大部分は日吉町南部を西流する大堰川の支流中世木川・木住川・田原川・胡麻川・志和賀川がつくった谷間に耕地と集落がある。面積は広いがほとんどが山地であるため農業と林業の兼業形態が多い。
日吉町
ひよしまち
[現在地名]厳原町日吉
宮谷町の東に位置する。後山の麓から中腹にかけて中級・下級の武家屋敷が置かれた。天道茂の北に日吉権現があったことに由来し、これに中桁および宮谷の東部を合せた地域。この日吉権現社は文治二年(一一八六)の創祀と伝え(津島紀事)、文永四年(一二六七)二月二〇日の講師某注進状写(八幡宮文書)に日吉宮とみえる。のち佐須奈(現上県町)に移っている(津島紀事)。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に日吉、文久二年(一八六二)の巡検報告書(開国起原)に日吉町とある。
日吉町
ひよしまち
[現在地名]金沢市日吉町
中橋町の北端から広岡山王社に達するまでの山王社参道をいう。山王社は広岡村など四〇〇余戸の産土神。もとは真言宗顕証院が別当であったが、明治元年(一八六八)神仏分離により広岡日吉社を名乗り、同七年平岡野神社と改称した。曹洞宗放生寺があり、元応二年(一三二〇)大乗寺二代瑩山紹瑾が開いたと伝える。その後二六〇余年間は退転していたが、元和元年(一六一五)津田遠江(重久)が壇那となって再興、寺地は微妙院(加賀藩三代藩主前田利常)から「宮腰口広岡村」に七〇〇歩を拝領、寛永一二年(一六三五)さらに六八〇歩を得たという(貞享二年寺社由緒書上)。なお重久が再興したときの寺名は禅竜寺といい、寛永一一年重久が没したのち旧号放生寺に復したとも伝える(加能郷土辞彙)。
日吉町
ひよしちよう
昭和一一年(一九三六)から続く町。同年六月に亀田郡湯川村が湯川町となった時、旧大字下湯川村の字寺野の一部を中心に字寺野頭ナシノ沢・字頭無ノ沢・字滝ノ沢の各一部を加えて、字日吉町とした(湯川町字地番改正調書)。町名は寺野地区に明治一二年(一八七九)に開拓に入った開進社の人々が勧請した日吉神社に由来する。昭和一一年の字日吉町の戸数三五(湯川沿革史)。同一四年に湯川町は函館市と合併し、函館市字日吉町となり、翌年同市日吉町となった。
日吉町
ひよしちよう
東山区七条通鞘町西入
七条通南側に位置。南は旧柳原村、西は鴨川。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」七条通の項に「伏見街道西入 日吉町」とあるが、正しくは鞘町通の突当り及び同西下ルにあたる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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